身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

2010年BEST5 外国映画 子供の時間篇

  • 映画は「音」を獲得し、サイレントの「動く画」だけですべてを物語る独自の演出形式を一旦ふり捨てる、という映画表現としては「後退戦」を強いられるなかで新たな発展をとげた。そして「色」を獲得し、白と黒の諧調ですべてを描く豊かな撮影技法を一旦ふり捨てる、という「後退戦」のなかで新たな発展をとげた。それからデジタルな「バーチャル空間」を獲得し、光と闇がもたらすフィルムの湿りをおびた艶を一旦ふり捨てる、という「後退戦」のなかで新たな発展を遂げようとしている。では、その流れに「3D」を新たに位置づけられるのか。アンディ・ウォーホル一派のポール・モリセイが監督した『悪魔のはらわた』を3D草分けの赤と青のセロハン眼鏡で観て、お腹に突き刺された槍の先に臓物がくっついて飛び出すのに大笑いした経験のある身としては、格段の進化にひとまずのビックリはある。
  • と同時に、TVの台頭に対抗しようとするあまり、ビスタ→シネスコ→70ミリ→シネラマとスクリーンの横と縦を無闇に拡張して廃れたときと同じ「恐竜化」の道を感じなくもない。TVもゲームも巻きこんだ前後・奥行きの拡張。ティム・バートンの『アリス・イン・ワンダーランド』を観ても、奥行きの空間性や前後の動きがやたら強調されているだけで、それが物語を活性化させているとは思えなかった。だいたい、前景から後景までバームクーヘンみたいに書き割りを並べ重ねたようなこの奇妙なペラペラ感、重力の希薄さに、わたしたちはどこまで立体の「物質性」を体感できているのだろう。フェティッシュな悦びが薄い。映画は名人といえる数々の撮影監督によって、視覚だけじゃなく嗅覚や触覚にまで訴えかける、濃密な奥行きのある時空をスクリーンに実現させてきた。一方では、ちょうど近代絵画がルネッサンス以来の遠近法に疑問を投げかけ絵画の平面性に立ち返ろうとしたように、奥行きという偽りを消してスクリーンの平面性に立ち返る刺激的な試みもなされてきた。初期の北野武なども、そういう平面性への冒険を映画に吹きこんだ監督だったと思う。メーカーやマスコミの尻馬にのって「3D革命」だの「3D元年」だのを真に受けてると、映画がまたまた技術先行の「後退戦」を強いられることなど知ったこっちゃないとばかりに、メディアをまたいで一気に3D一色に染め上げんとする気勢に呑まれてしまう。それこそ「恐竜化」の道ではないか。性急さの速度をゆるめて、2Dと3Dの共存の道を模索しましょ。

ユキとニナ

  • フランス映画がつちかってきた多感で傷つきやすい「子供」の系譜の、次代の1ページとなる傑作。ユキは父がフランス人、母が日本人という9歳のパリ育ちの女の子だ。両親の離婚によってママと日本で暮らす話がもちあがる。ユキはパパとも親友のニナとも別れたくない。ユキとニナの手紙ごっことか、両親のいさかいをユキがベッドルームで気にかけつつ気にしないふりをするシーンとか、室内シーンも素晴らしいのだが、圧倒的なのはユキが家出して森をさまようシークエンス。ニナは行動派でユキは慎重派、でもユキみたいな女の子こそ森の暗がりに惹かれてゆくのだ、と得心させるものをユキ役のノエ・サンピはもっている。選ばれた少女の資質。巧みさとか達者さとは別の次元で、役と演者が命をやりとりするような存在の仕方。フランスの森をくぐりぬけるとそこは日本の山あいの田舎で、自転車からユキに日本語で呼びかける女の子たちが通りかかり、おばあちゃんの家に招く。どうやらそこは、ユキの母親が少女期に過ごした想い出の風景と通底しているらしい。そういう一種のイニシエーションを経て、ユキはニナとの別れを受け入れるのだ。大人になれば享受できない、子供時代の唯一無二の時間が宿っている。日本とフランスを越境して活動する諏訪敦彦が俳優のイポリット・ジラルドとコラボして脚本・監督。諏訪監督のストイックなきびしさに柔和さが加わった。

白いリボン

これは怖い。怖いといっても血が流れるわけじゃなく、心臓を真綿で締め上げられるような怖さ。通りをふさいでピンと張った針金のワナに馬がつまづき、村医者が落馬・大怪我したことに端を発し、第一次大戦直前の北ドイツの静かな村に次々と不可解な怪事件が起こる。一向に解決されないミステリーの不穏さ。プロテスタントの牧師を筆頭に、敬虔な顔つきをした大人の偽善があり、彼らに極端なかたちの禁欲を強いられた(白いリボンはそのしるし)子供たちの「無垢」と「悪意」の物語がそこに浮かび上がる。マスタベーションの癖を父という絶対権力者に悟られて、両手をベッドに繋がれて眠る少年が、窓外の納屋が火事になっているのを目を開けてじっと見ている様子とか、ゾワーッとくる戦慄感がある。やがて、性的抑圧がもたらす大人の世界のゆがみ、子供の世界の亀裂がみるみる増殖して日常を覆い尽くす。ナチズムはこういう閉鎖空間が温床となって生まれたのかも、と思わせる圧倒的な密度で、ミヒャエル・ハネケ映画の頂点に立つ。すべてを描かずに、ちょっとした「示唆」によって心臓を射ぬいてくる演出の揺るぎなさ。助産婦を母とする14歳の娘のエピソードがわけても怪異で胸をえぐるのだが、短い文ではうまく書けない。公開中。

ぼくのエリ 200歳の少女

  • 思春期の感受性が白夜の淡い光にきらめき震えるような至純のヴァンパイア映画。あるいは、ヴァンパイアものの枠組を借りた究極の思春期映画と言ってもいい。無垢には収まり切らない、あわあわとしつつも柔肌がかぎ裂きにひりつくような初恋。純粋さという名の罪の味。それらが血塗られた夢幻詩に結晶して、樹氷がきらめく北欧の凍てついた風光を立ちさわがせる。まだカセットテープの時代のお話。大好きです。過去稿は《こちら》

あの夏の子供たち

  • 並のプロデューサーなら尻込みしちゃうようなリスキーな企画を進んで引き受け、突出した個性と才能の監督を映画製作へとバックアップしてきた実在の名プロデューサーの「自殺」がモチーフになっている。片方にどう資金繰りをつけるかの闘いがあり、もう片方に妥協を知らない異能の匠の頑固さがもたらす頭痛がある。それをどう折りあわせるか、前半は独立系の映画メイキングをプロデューサー目線でみせる内幕もの的な面白さ。現場を立ち回る楽観のひととして映画づくりを幾つも抱えて突っ走り、映画に殉じた「死」を転回点に、残された妻と3人の娘たち、仕事仲間が彼の遺志をなんとか継ごうと、それぞれの身の処し方で必死になる後半。生前の彼がなけなしの時間をつくって子供たちと過ごす川遊びの水のしぶき、陽光のきらめき、笑いさざめきに陶然とさせられる。娘たちの活き活きとした動作や表情を、水や光と戯れるように一瞬ごとにカメラがヴィヴィッドにフレーミングしてゆく。その背後に深い憂いがある。監督は若き才媛ミア・ハンセン・ラブ。映画をつくることそのものが「魔」に吸い寄せられることなんですね。

冬の小鳥

  • ジニは9歳で父親に捨てられ、ソウル郊外の施設に育つ。養子縁組によってフランスに渡るまでが描かれるのだが、よそいきの服と靴、ケーキも買ってお呼ばれにでも行くみたいなオープニングから、こちらの琴線に触れてくる緊張感がある。ジニは捨てられに行くという状況をまるで把握できないのだ。自転車を漕ぐ父さんの背中に頬をつけ、歌をくちずさむ。「背中」がラストで印象的に反復される。キリスト教系の施設はディケンズが描く救護院をちょっと連想させるが、きついとこのある寮母さんもいい味を出している。苛烈な空間に突然投げこまれるひとりの少女の瞳を媒介にした、 凛冽な大気がみなぎる世界像の提示。「可哀想」を売りにする映画ではない。大切に育てた小鳥のお墓に自分が入ろうとして土をかぶり、その土の中で生きる決意をするエピソードの秀麗さ。韓国系フランス人の女性監督ウニー・ルコントは自身同様の子供時代の体験があって、それがモチーフらしい。けれど、これは回想記とは一線を画する。ほんとはもっとひどいことがあったけどあえて描かずにおく、というつつしみを感じる。つくり手が祈りをこめた現在進行形の生が息吹いている。少女役キム・セロンの天性のリアクション、視線の靱さ。ちなみに、『あの夏の子供たち』のミアも本作のウニーもオリヴィエ・アサイヤス作品の女優として映画現場とまず関わっている。アサイヤス監督は新進の女優のなかに映画作家の資質を見出し、育てる教育者的な磁力があるのだろうか。
    • 今年公開の外国映画にはまだまだ偏愛の映画があるんだけど、ここらで打ちどめ。よいお年を! お正月は、時間がとれなくてひと夏寝かせてしまった阿部和重の「ピストルズ」を読むつもりです。

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