身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

洋菓子店コアンドル 蒼井優 感想

  • 監督は『白夜行』に同じく、まだ弱冠34歳の深川栄洋。すでに引く手あまたの感があるが、器用貧乏に収まらなければ、将来的に日本映画の中核を担う監督となるだろう。わたしは昨年の秋、『白夜行』に数日先だってこれを観て、物語のかまえ方が大ぶりの『白夜行』より、きゅっとスリムに締まったこちらのほうが出来がいいんじゃないか、と思った。映画として、過ぎたるものがなく、よく出来ている。「ウェルメイド・プレイ」というのは、定型的な物語をいかなる「運び」でスムーズに物語ってゆくか――その映画話術がなにより問われるわけで、語りより物語内容(あるいはそのテーマ性)で作品を評価しがちな日本では軽んじられやすい。日本映画の不得意分野といってもいい。何を描き、何を省くか、ディテールをおろそかにせず、物語を無駄なく構成して運んでゆくワザを、深川監督は脚本・演出両面から案配できる得がたい才覚がある。
  • クレジット上は江口洋介蒼井優がダブル主演扱いのこの映画、作品を観ると主人公はあくまで蒼井優のなつめで、江口洋介扮する、いまはスイーツ評論家に身をやつした伝説のパティシエ・十村のサブストーリーは端折りぎみ。あくまで脇役的な位置づけであることがわかる。ところが、少ない登場でさっと場をさらいつつ、主人公をここぞの局面で支えてみせる脇役的な芝居の濃淡というのが、主演でならした江口洋介にはどうも感じられない。役者の問題というより、まずはプロデュース・ワークの問題だと思う。仕事に夢中になったがゆえに目配りできなかった愛する肉親の死が十村のパティシエ廃業の理由、というありがちな秘密を肉づけできていないのが、ひとつ挙げるならこの映画の弱点といえるだろう。スイーツをつくれなくなった、でも、食べるのはいい、書くのはいい、というつかず離れずのご都合主義もいささか気になる。けれど、危機に瀕したお店へのヒロインなつめの気持ちと連動して、十村の抱えてきたものが回想で現れるタイミングは悪くないと思う。
  • 洋菓子店コアンドル』の主軸をなすのは、蒼井優演じる田舎のケーキ屋の小娘が、ひょんなことから東京の小さな一流洋菓子店でパティシエ修業をする巡りあいとなり、独り立ちのきっかけを得るまでの成長譚だ。田舎娘が都会でもまれて変身し大人のとば口へと踏みだす――このごく常套的な物語を肉づけと語り口で軽やかにみせきってくれる。戸田恵子をオーナーとする洋菓子店コアンドルをめぐって、ゆかりのバイブレイヤーたちがここを評判店へと押し上げてきたお店の由来の物語が同時進行で浮かび上がるのだが、そこに田舎出の小娘なつめはいわば土足で踏みこむことになるわけだ。幼なじみの「フィアンセ」がちょっと前まで下っ端職人として働いていたこのお店に、なんの算段もなく彼を追って上京したなつめは傍若無人に居ついちゃう。フィアンセというのはなつめの一方的思いこみらしく、幼なじみがどこかへ職場替えしていたことに彼女が途方に暮れた成り行きから。平凡なケーキ屋の実家で父親に見よう見まねしていただけのど素人が、ひと癖もふた癖もある職人気質とぶつかりながら、プロフェッショナルの修行を積む日々。失敗また失敗の惨憺、その裏打ちによるスイーツ創作のディテールが、歯切れよく描かれる。目に楽しいその現場から、いまは男よりも仕事、というなつめの心変わりも醸成されてゆく。上手い。
  • 「さようなら」の意味を取り違えて男にあっけなく振られるかたちとなったなつめは、酔っぱらいの乱行に持ち前の勝ち気をのぞかせ、オーナーパティシエに新たな覚悟を語る。傷心のヒロインの笑い泣きに、カメラは俯瞰ショットでにじり寄って相対し続ける。存在の底から今この瞬間だけの光を放つ女優・蒼井優とカメラが惹かれあい、切り結んでいる。本篇屈指の名シーンだ。バイブレイヤーでは、医者から甘いものを止められてたのにお忍びでコアンドルを訪れる毒舌の老嬢・加賀まりこが断然効いている。悪い脚を引きづってお店に入り定席に座る、その仕草にどこか命がけの贅沢という雰囲気がある。ついに床から出られなくなった老嬢になつめが新作のスイーツを届けるんだったか、奥の間から「おいしい」って老嬢の声だけがかすかに響く。それはなつめがはじめて新作を誉めてもらった一言で、彼女のその小さな自信に呼応するように、画面はオーナーが不在となってがらんとした暗がりに光の束が淡く射しこむ、危機的事態のコアンドルの空間に転換する。このままじゃいけない、なんとかしなくちゃ、というなつめの靱いまなざしがそこに在る。張りつめた静寂のシーンの連鎖。いいなぁ。そうして、なつめは一波乱覚悟で伝説のパティシエ・十村に談判に行くのだ。語りに、緩急の妙がある。

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