身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

白夜行  堀北真希/高良健吾 感想

  • 東野圭吾の13章からなる長篇小説をさて、どう約2時間半の映画にまとめてみせるのか。大長篇を映画にしようとすると、まぁたいていは原作の上っ面を絵解きしたダイジェスト版みたいになってしまう。むしろ短篇の行間を思いっきり膨らます、というやり方のほうが、原作ものの映画では成功例が多い。でもこれ、監督・脚本*1 にいま目を惹いて伸び盛りの若手・深川栄洋が起用されているのでかなり期待していた。他人を徹底利用してセレブの世界に踏みこんでゆく、内部が空洞の氷みたいな生き方が、ヒロインが感じた「太陽に代わるもの」を支点にすれば、彼女の過去の地獄ときわきわのところで釣り合うものなのか? かえりみていつか氷が溶けても空洞が残るだけでは? そのお話の異様さ、凄惨さを演出が処理し切れていないきらいはぬぐえないものの、原作のどこを省略し、どこに焦点を当てて厚みをもたせるか、なるほどと思えるほど的確で見応えがあった。しっかりとつくりこまれている。いよいよ今日、全国公開の初日を迎える。昨年、晩秋にひとあし早く観た記憶を少しばかりたどってみます。
  • 発端は、警察上層部の都合によってうやむやに解決された質屋殺しの密室殺人事件。以来19年間、はじめは10歳ほどだった容疑者の娘・雪穂と被害者の息子・亮司の周辺に、折にふれ怪事件が続発することになる。担当刑事は霧の晴れない事件に対して心のしこりが残り、定年を迎え老いてなお真相を追い続ける。その行き着く先に浮かび上がるものは……、というのが物語の流れだ。原作にあって映画で割愛されたものとしていちばん目につくのは、初期のコンピュータ・ゲーム機からファミコン、パソコンの台頭にいたるなか、暗躍するソフト開発のスパイ戦。いまではあまり耳に入らなくなった言葉だが、高度成長期には日本映画でも「産業スパイ」もののプログラムピクチャーが盛んにつくられた。取り組めば、これだけで別作品がひとつできちゃいそうなエピソード――闇にまぎれて青年・亮司が関わることになるこの部分を1本の映画にするには繁りすぎた枝葉と定め、思い切って刈り取ったのは正解だったと思う。そのため、原作では後段で重要な役割を果たすチャーミングな私立探偵をはじめ、彼をめぐる捨てがたい脇役たちを消去したり、別の脇役に統合して埋めこんだりせざるを得なくなったのはやや残念ではあるにしろ、やむを得まい。
  • 産業スパイものの趣向を全削除し、脇役たちを思い切り整理・統合して映画が焦点を合わせるのは、まず堀北真希演じる雪穂と高良健吾演じる亮司の、いつ明け初めるとも知れぬ果てない白夜の道行きだ。 もとより「白夜行」というのは比喩であって、スクリーン上ではふたりが交叉することは決してない。にもかかわらず、学生サークルや社交界の脚光をあびて冷え冷えと輝く上昇志向の雪穂の影法師を追うように、身を沈めて低空飛行する亮司、という構図が徐々に徐々に、クレシェンドで胸元に迫ってくるのが素晴らしい。闇を抱えて光を食べる雪穂と、闇を食べて光に触れる亮司の、肉体的には交わることのない補完体としての「白夜」。切ない。高良健吾の亮司は原作の理系の亮司と異にして、もっぱら肉体を売る夜の仕事にいそしむ。一見どこか陰のあるイケメンの暴君的快楽主義者にみえて、その実、姫に呪縛され愛の亡霊と化した召使いさながらだ。この難役を高良健吾は、現場で常に追いつめられて吐いたり過呼吸に陥るほどだったという、肌にビリッときそうな崖っぷちの感度の高さで演じていて、ときに狂おしさがこちらに感電して息がつけなくなるほどだった。とくに、亮司の秘めたあぶなさに惚れてしまう年増の薬学部出の女・典子(粟田麗好演!)との傍系エピソードは、脚色の工夫や描写の濃さにおいて原作を凌いでいると思う。
  • いっぽうの雪穂もまた難役だ。ミステリーの要所(加害と被害、双方が謎をはらんでいる)までバラすわけにはいかないのでぼかしてしか書けないが、彼女の孤独な少女期の愛読書は『風と共に去りぬ』なんですね。雪穂はこの世の汚濁にまみれようが、たとえ悪女のそしりを受けようが、逆境を踏み越え背筋を伸ばして意気、天を衝くスカーレット・オハラになりたかったのだ、ということができるだろう。ただし、蠱惑の糸を吐いて目的のためには近づく男をことごとく籠絡する冷たい奈落を秘めた、ファムファタール(宿命の女)の側面が強い変形スカーレット。堀北真希は大健闘している。だが、映画100余年の妖艶なるファムファタールの系譜に名を連ねるには、その存在感、危険な芳香の吸引力において少々見劣りするかなとも思えてしまう。ひとによっては「得体の知れぬ不気味さ」とも見える美貌の成り上がりセレブリティ。その化けっぷりひとつとっても、まだ貫禄も表現の綾も足りない。それでも、雪穂をうさんくさい女と嫌っていた小姑(夫の妹)が暴漢に陵辱されると胸をはだけて抱きしめてやり、悪夢のなかでケモノじみた裸に追い立てられたらあたしの白い裸を思い出しなさい、ってやさしく手なづけるんだったか、早くも記憶のなかで映画と小説がごっちゃになってるが、肩をはだけた堀北真希の、大人びた仕草がかえっていたいけな幼さを感じさせもする、ひんやりと敵のお嬢様にしなだれかかる表情に鳥肌が立った。映画ではこれまであまり良作に恵まれなかったけれど、やっと代表作ができた。これから映画女優として天を衝くほど伸びてほしい。*2
  • 白夜行』で原作小説が読者をぐいぐい引きこむ大ヤマをなすのは、高度経済成長から取り残され戦争直後の名残がそこここに貌をのぞかせる1973年、大阪郊外(くしくもわたしの少年期にも馴染みで、商店街の匂いまでが思い出される近鉄沿線布施駅のはずれ)の質屋店主殺人事件の顛末(第1章)と、連続幼女殺人事件の公判が新聞記事に載りはじめる90年代初頭、すべての謎が収れんしてクライマックスへとなだれこむ怒濤のくだり(第12章、13章)だろう。時代設定が原作より7年ほど現在に近くずらされ、発端となる街も関東近郊にロケしてどこにでもある荒びの一角という感じになった映画もまた、これに対応する導入部と終結部がきわだって優れている。雨傘の咲く殺害現場前の俯瞰ショットがあり、取り返しのつかない「落下」に闇の深さが張り裂けるロングショットがある。この道なき道を水先案内する役目を担うのが船越英一郎演じる刑事・笹垣だ。原作では職業意識を超越したアナログ型刑事の執念で老獪・頑固をつらぬく笹垣に、映画は子を亡くした父としての情味がまぶされていて、ここは評価の分かれるところかも。でも、少年のまま煉獄に繋がれてしまった亮司に、かぼそくとも外界との回路をもたらす役目として、映画の掉尾を飾る冬の屋上シーンに至ってこれが効いた。原作でもこのシーンは白眉だが、闇を隔てて呼び交わす声と声がさらに痛切な波紋となり、凍てつく聖夜に染みわたった。*3

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*1:脚本については、TV畑で活躍する脚本家の稿に徹底的に直しを入れる関わり方ではないかと想像されますが、詳細は知りません。

*2:物語のカギともなる子供時代の雪穂役・福本史織と亮二役・今井悠貴も、その寡黙な翳りのたたずまいがハッとするほどいい。深川監督は型にはめずに子供を生かす演出を心得ておられるよう。

*3:深川監督は、笹垣のまなざしを自分自身のまなざしとダブらせた、と語っています。