身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

モールス  クロエ・モレッツ 感想

  • 原作小説の「モールス」はすでに『ぼくのエリ 200歳の少女』というスウェーデン映画の傑作を生み落としていて、それについては《こちら》に書いた。そのハリウッド・リメークとなれば、大方はバジェットは大きくなっても出来は薄味の凡作というのがオチである。だが、映画『モールス』を撮るのが、『スーパー8』の監督J.J.エイブラムスと13歳のときに出会い、映画製作において共闘関係を組んできたマット・リーヴス――フェイク・ドキュメンタリーの手法に新たな沃野を開いた『クローバーフィールド』の監督となると、たぶんダメだろうけど、もしや……の期待もあった。その「もしや」の希少例が生まれたことを心から喜びたい。まるで思春期のホルモン・バランスが引き攣れを起こすように、無垢なるものと邪悪なるものがこちらのはらわたを抉ってくる。心臓をキリ揉みされるような怖さがあると同時に、やっと手に入れた世界の慕わしさが砕けてゆくような切なさがつのる。かたや映画『ぼくのエリ』への敬意を感じ、かたや原作小説への敬意を感じる。双方をいいとこ取りしてやろう、それを高いレベルで融合させてやろう、という野望が画面から伝わってくる。
  • 映画『モールス』は『ぼくのエリ』より、スリラーとしての描線がくっきりしたということがまず言えるだろう。アメリカ南部ニューメキシコ州ロスアラモス、1980年代の早春。ここは高地だから南部でも雪が積もる。50代の男が森の道を運ばれ、病院に搬送される。みずから手を下したひどい火傷で顔が判別できない。ピューリタンな善なるアメリカの伝統がもたらした負の遺産カルト教団の残党か悪魔崇拝者か? と周囲は色めきだつ。スウェーデンのスモールタウンの事件を、アメリカ南部の閉鎖的な風土に移植する周到さ。のっけから不穏な空気がみなぎるなか、刑事が病院受付からの電話に応じるすきに、男は病室の窓から雪の庭に死のダイブを敢行する。このイントロダクションが起点となって、『モールス』は2週間前に遡り、謎の男がなぜみずから顔を焼き自死を選んだのか、のプロセスが前段で繰り広げられる。そうして、さらなるカタストロフィへ向かうその後の顛末が後段で語られる。『ぼくのエリ』では、白夜の薄明かりに展開する血塗られた夢幻劇のムードとしてじわじわ効果を上げ、物語上は背後に沈みがちだった連続猟奇殺人事件が、『モールス』では物語を推し進める動因になっている。
  • 2週間前、男は少女を伴い、アパートに引っ越してくる。少女の父親、あるいは庇護者然として。突然の隣人の出現に、少年オーウェンの胸はざわめく。信心深い母と二人暮らしの、この内気そうな少年の行動属性は、「覗き見」することと「聞き耳」をたてることとしてまず現れる。そのようにして、少年は少女アビーが雪の上でも裸足なことを双眼鏡越しに目撃し、まるで獣のうなり声みたいな「父娘」のいさかいを壁越しに聞く。ひとりぼっちのオーラをまとった裸足の似合う少女。『キック・アス』のおきゃんな戦闘少女から一転、クロエ・グレース・モレッツがこれを演じ、ナナメ横からとらえた流し目の表情に、「普通のひと」じゃない翳りと年齢不詳の淋しげな笑みを宿して素晴らしい。警戒しながら、少年オーウェンもみるみる惹かれてゆく。アビーはしばしば、オーウェンの背後に音もなく現れる。少年の眼や耳を制するように。オーウェンこそ悪童たちに学校でこっぴどくいじめられていること、仕返しにナイフを隠しもちながら何もできないことを、アビーに見ぬかれている。映画ならではの視線や気配を介し、アンバランスな思春期を生きるきわめてヴィヴィッドな「初恋」物語の骨格が静かに露わになる。少年にとって、やっと手に入れた世界の慕わしさ。それを外から脅かすのがエスカレートする悪童たちのいじめであり、内から脅かすのがアビーと「父」の怪しげな関係なのだ。
  • 娘に「栄養」を与える「父」と小娘の、父娘というにはあまりに「腐れ縁」めいた関係は、『ぼくのエリ』では最後まであいまいにボカされていたけれど、『モールス』ではセピアに褪せた1枚の写真を配することで、すきっとわかりやすくなった。少年がそこにわが身のなれの果てを見てしまう戦慄感とともに。余韻のあるラストシーンにも関わってくることなのでこれ以上具体的には書けないが、『モールス』の創意がシンプルなかたちで現れた印象的なディテールだった。実は、ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストが著した原作の「モールス」では、墜落死したはずの男=少女の庇護者は顔がつぶれたまま死体安置室で蘇り、森に逃げて町全体をパニックに陥れる。あげく、さながら壊れた性欲マシーンのごとくエリ(映画『モールス』ではアビーの役)に襲いかかったりする。かつて少年だったエリの不可思議な「性転換」*1 の秘密があり、それがヴァンパイアの血の「感染」に由来するものなのか、男の少年愛に由来するものなのか、さらなる深みにはまってゆくみたいだ。そういう「性差」の揺らぎ、アンドロギニュス(両性具有的)な面白さは、謎を残しながら『ぼくのエリ』のほうに色濃く出ていた。なんせこちらの少年オスカー(『モールス」ではオーウェンの役)はきわめて女の子めいて……というか、浅黒く精悍なエリに比べ、少年の北欧的な乳白の柔肌は淡い光を受けてまるで少女を撮るような倒錯性すらまとっていたのだから。
  • 映画『モールス』でも、少年オーウェンは悪童たちに「おい、女の子!」と囃したてられるし、アビーは彼を「全力でやり返すの!」「やり返されたら、私が手伝う」と男っぽくけしかけるのだが、「性差」の揺らぎに深入りはしていない。「私は女の子じゃない」とアビーが明かしても性器のありさまにまで関心を向けず(少年のリアクションにそのほのめかしはあるのだが)、私は普通の人間じゃない、というところにすべてを収めている感じ。アビー役をクロエ・モレッツに託す以上、このわかりやすさ、逆にいえば突っこみの弱さは、仕方のない選択だろう。すごいのは、クロエ・モレッツの天才がこれを「弱さ」に留めていないことだ。横目遣いの微笑みや背後からの忍びこみ、不意打ちめいたキスの優しさでオーウェンを虜にしてきたアビー。その吸血鬼じみた獣の相、老いの相、さらにはあのセピアの写真を目の当たりにしてショックを受けた少年の、招かれざる客を迎えるような拒絶的な態度に、少女は上目遣いにわななきながら額や目や鼻から血を流す。少年に抱きとめられたクロエ・モレッツ扮するアビーのアップショットは、まるで受難に耐える聖女のような神々しさだ。邪悪なものと聖なるものの混交。この「正邪」の揺らぎが、心にナイフを隠したいじめられっ子オーウェンの心臓に食いこみ、バスルームやプールの血塗られたクライマックス・シーンを経て終幕になだれ打つ。惨劇含みなのに、観ていて芯から敬虔な気持ちになる。
  • オーウェン役のコディ・スミット=マクフィーも、前作『ザ・ロード』に続いてセンシティブな好演。少年と少女を結んだ壁越しのモールス信号が、かすかな「胸騒ぎ」をもたらし、波紋をひろげる。永遠の幸福感があり、永遠に悲劇的でもある旅立ちの夜明けへと。

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*1:より正確には「性喪失」、ヴァンパイアがきわめてセクシャルな存在であることをかんがみれば「性超越」というべきだろうか。