身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

ヒアアフター  感想

  • インビクタス 負けざる者たち』に続いてクリント・イーストウッドが監督に徹し、マット・デイモンが主演に名を連ねた最新作。わたしは昨年の秋の終わりにこれを観た。2ヵ月半ほども経ってからなにがしかを記そうとすると、大事なディテールが蘇って来ずに呆然とするが、ファースト・インプレッションの噛み合わせの悪さというか、感動という言葉には収まりのつかない奇妙な舌触りをしばらく寝かせておける強みもないではない。これ、大好きなんだけど、ちょっとばかりへんてこりんな映画でもあって。イーストウッドは『チェンジリング』と『グラン・トリノ』という大傑作を連打したあと、もうなんでもありというか、『インビクタス』ならモーガン・フリーマンからの、『ヒア アフター』ならスピルバーグからの、親しき者の企画持ちこみを、すべてを撮り尽くしてなお創作意欲の衰えない老監督として鷹揚に受け入れちゃう境地にあるような気がする。融通無碍。それでいて、高いレベルをキープしている。
  • ヒア アフター」とは死後の世界のこと。3つのストーリーから臨死だの視霊だの霊媒だの、容易にキワモノになり得るモチーフが浮かんでくるのだが、イーストウッドがはたして「死後の世界」なんてものを本気で信じているのかどうか。マット・デイモンの役とは対照的に、この映画に登場するインチキ霊能者ばりに、どうもウソくさい。死後の世界というのはあくまで物語上の方便で、死の側に首を突っこみ、大切な死者への想いを断ち切れない者たちが、やがて偶然とも必然ともつかぬかたちに繋がって、生の側にこそ踏みだしてゆく。そのとき、死や霊を透視する特殊能力はいつのまにか消えている。笑っちゃうほど淡泊なその「消失」が映画の終わりであり、人生のはじまりでもある。そんなオープン・エンディングをこの映画はもつ。死を基点にして、彷徨の果てにおのおのの生き方が開けてゆく感動的なヒューマン・ストーリーとも読めるだろう。実際、イーストウッドの手になる音楽はそういうリリカルな歌い上げ方をしているのだが、そう言い切っちゃうとこの映画のざわざわといびつな残余の魅力まで消えてしまいそうで……。
  • サンフランシスコ篇。マット・デイモン扮するジョージの、霊能者としての特別な能力を、天からの「ギフト」として善いことに利用しろ、それを本格ビジネス化する手腕と準備がオレにはある、と彼の兄は諭す。実のところ、いまの仕事に見切りをつけ、兄貴はていよく金儲けをしたいらしい。ひと目見て、そんなヤマっ気ぷんぷんの野郎と知れるのがイーストウッド演出の上手さ。けれど、ジョージは手を握るだけで他人の心を知りすぎることを「呪い」と呼んで、依頼者を占うカゲの職務から身を引こうとする。イタリア料理の教室に通ったり、新たな活路を模索中だ。カンツォーネが流れる教室で、にわかパートナーとなったメラニーを目隠しして、その口にジョージがスプーンを差し入れてやる。料理当てゲームはやけに色っぽい気分をかきたて、ジョージのアパートでさっそく覚えたての料理を試す成りゆきとなる。いい関係を築けそうな予感とともに。ところが、彼の霊能力を知ったメラニーのリクエストにやむなく応じ、ジョージが手を握ったとたん、亡父をめぐる彼女の内奥の秘め事が、彼女に知り得なかった逸話も含め、フラッシュとなって瞬時に暴きだされてしまう。「私たち、大丈夫よね」。メラニーはそう言って食事も取らずに帰っちゃうのだが、壁際にへたりこんではらはら泣く彼女を粘り強くフォローするカメラは、そのダメージと放心の表情(メラニー役のブライス・ダラス・ハワードが圧倒的!)だけでふたりの関係が決定的に損ねられたことを、酷薄なまでに照射するのだ。観客はここにきて、ジョージが自分の能力を「呪い」と呼んで遠ざけようしたことの意味を思い知る。当人も踏みこめない他者の聖域にやすやすと踏みこむこと、本人が記憶から遮断した井戸の底まで照らしだすことは、死地に吸い寄せられて戻れなくなるような危険な孤独と表裏一体。正気を保つか気が振れるか、きわきわの行為に他ならない。
  • パリ篇。フランス人女性キャスター・マリー(フランス映画界の売れっ子セシル・ドゥ・フランス)は東南アジアの保養地で番組プロデューサーと二人連れの休暇中だ。惰性的な愛人関係を思わせるホテルのぞんざいな日課を始点に、マリーがひとり土産を買いに露店めぐりに出かけると、にわかに津波が襲来する。リゾート地でのパーソナルな日常風景が津波とともに大惨事に様変わりする描写の、室内から屋外へ、極小から極大への広がり。カメラが濁流と格闘するマリーをとらえ(サーフボードにカメラを搭載しての撮影)、視点人物であるマリーをフォローして町を呑みほす水中をもぐり、浮上する。障害物が後頭部を直撃してついにマリーが昏倒すると、彼女とともに再び水の底へ降りてゆく。すると、今度は外界から内界へ、白い空間を死者たちがとぼとぼと行き交う、マリーの臨死のイメージがほの明るく浮かぶのだ。さらにショットが切り替わると、マリーは現地の男たちの手で陽光降りそそぐ地上に引き上げられていて、いままさに息を吹き返さんとむせる。なんて贅沢なイントロダクション! 大津波の映画的スペクタクルからマリーがこうむる内的事件に焦点化してゆく、一連の効率のいいカッティングの流れ。イーストウッド演出の骨頂がここにひそんでいる。本拠のパリに戻ってもマリーはもはや番組プロデューサーと折りあえない。死の側に吸い寄せられて戻れなくなる、あの危険な孤独をまとって成功者の位置から滑り落ちてゆくばかり。
  • ロンドン篇。いかにも裏町育ちといった雰囲気の母親はヘロイン中毒で、10歳前後の双子の兄弟は里親に出されるのイヤさに母をかばい、福祉局に対して居留守を使う。この緊迫感から物語は始動する。母から頼まれた薬局へのお使い。弟マーカスと携帯で連携してそれが中毒を治療する薬と知り、薬局への途につく兄は家族の将来に小さな希望をもつ。その矢先、帰路チンピラに囲まれ、逃げようとして車に正面からはねられる。少年への理不尽な暴力の感覚は、まぎれもなくイーストウッド映画のものだ。おしゃべりで外向的だった兄の形見のハンチング帽をかぶり、寡黙なマーカスは里子に出されてますます内向する。心を閉ざし、兄との対話だけを糧とする。地下鉄の雑踏にて。ハンチング帽が脱げてしまい、行き交う人々に蹴られる帽子を足元にしゃがんで追ううちに、マーカスは電車に間一髪乗り遅れる。乗りそこねた電車が地下トンネルに消えかけた刹那、爆発音と閃光が画面を圧する。鮮やかなショック演出である。マーカスには帽子が脱げたことが偶然とは思えず、助けの手を差しのべた兄のシグナルと信じこむ。少年期のかたくなな、死者との絆の深さ。マーカス役の無名の少年がみせる、亡き兄との秘めやかな魂の交感が胸を打つ。だが、マーカスが世界と折りあうためには、肌身離せない兄の帽子を手放すという「儀式」が必要なのである。マーカスもまた生きながら死の側に吸い寄せられた、あの危険な孤独をまとった少年なのだ。
  • 平行モンタージュで語られる異なる場所の3つの物語が、霊能力に興味を抱いた少年マーカスを媒介役としてゆるやかに折り重なるさまは、ロンドンの寒空の下、危険な孤独をまとった者どうしの人間的な磁場がかたちづくられるようでとてもうるわしい。心を許しあった職能集団が集う、イーストウッド組の映画現場がかたちづくる磁場をも連想させる。と同時に、下水孔へと永遠にに吸い取られる『ミスティック・リバー』のホッケーボールのように死の側に魂を吸い取られ、黒服で通したあの映画のショーン・ペンティム・ロビンスみたいに、終生を喪に服すかのごとく生き永らえながら、身にまとうのは失われた少年期の亡霊じみたまがまがしさか、迷いこんだ森の精霊めいたおぼつかなさか――罪と無垢を沈めた河を隔てて彼岸から帰還できなくなる、主人公たちの危ういさすらいにこそ、わたしは畏れや懐かしさを感じてしまう。思えば、初期監督作の『恐怖のメロディ』や『荒野のストレンジャー』から、はるかな到達点『チェンジリング』や『グラン・トリノ』まで、イーストウッドは身近な死者(さもなくば見知らぬ異物)に憑かれた者、あるいは、みずから死に憑かれた者を畏怖と諧謔をこめて描き続けてきた。スポーツ映画の爽快な後味をもった『インビクタス』であれ、マット・デイモン扮するラグビーチームの主将がモーガン・フリーマンマンデラ大統領を心から敬慕したのは、死の島でマンデラが投獄された在りし日を肌身に迫るように幻視したからではなかったか。少年マーカスのきかん気なツラがまえに、押し殺していた感情がこぼれるようにつーっと涙が伝うとき、生と死の淵にうごめくシネマの霊気が館内の暗がりを吹きぬけた。

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