身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

喜劇「ハムレット」悲劇?「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」5/19(渋谷) 前口上的感想

  • ハムレット&ロズギル、プレビュー翌日の初日を渋谷さくらホールで観る。観劇前に少し時間が空いたので購入していたちくま文庫版「ハムレット」(この劇と同じ松岡和子訳)を第二幕まで読み進む。芝居を観てすぐに感想をあげようとするも、文庫本をさらに読み進めるうちに翌朝となり、体力がそこで切れてしまう。以前、福田恆存訳の新潮文庫版は読んでいたのだが、シアトリカルな流麗の風格、その一方で古語や敬語の使い方がややまだるっこしくもある福田訳に対して、松岡訳は簡潔にして清新、台詞が小刻みに生動してするっと体に入ってくる。そのなかに言葉の遊びやダブルミーニングへの目配りも効いているようで、シェイクスピアのほかの戯曲も松岡訳で読み直してみたくなった。台本の上でも装置の上でも切り詰めに詰めた舞台もまた松岡訳と響きあい、褒めちぎる気はないけれど、一言でいえば簡潔にして清新をむねとする出来ばえ。
  • 翌朝眠りについて遅めに起きだすと、松本人志脚本・監督の『さや侍』を観るべく銀座の某試写室へ出かける。下手な演出やなぁ、もうちょっとなんとかならへんの、と心中突っこみつつも、生死の狭間で超くだらない奇想に専心するさや侍ドンキホーテ的なあり方――なんせ「風車」が見せ場なのだ、しかもこっちは、かざぐるま! この予定調和を退けた笑いのアンチ・クライマックスに、いつの間にか気持ちがもっていかれる。無分別に行動してから煩悶するドンキホーテ型、分別に足をすくわれて煩悶のうちに行動をためらうハムレット型、というツルゲーネフの比較考もあるらしい。なかなかハムレットに帰還できぬまま、仕事がトラブっていまに至ってしまう。この劇、‘喜劇「ハムレット」’なんて上っ面だけ奇をてらった半端なしろものならイヤだなぁなんて観る前は思いもしたが、年代物のコスチューム・プレイを仰ぎ見るのではなく、その重厚さをこそげ落とした軽装の「ハムレット」が直球で胸元に飛びこんでくるようで、思いのほか面白かったのだ。長谷川純の、前のめりに悩める若輩ハムレットに、高橋愛の、無垢のまま狂える歌姫オフィーリアに、したたかに心打たれた。斉藤レイ演じる、母にして女の王妃ガートルードにも惹かれるものがあった。
  • 人生を接写(クローズアップ)で見れば悲劇、遠写(ロングショット)で見れば喜劇、といったのはチャップリンだが、そうすると、悲劇と喜劇は合わせ鏡の関係。「きれいはきたない、きたないはきれい」と「マクベス」の魔女が言うように、かなしいはおかしい、おかしいはかなしい。そのあたりに、「ハムレット」を‘喜劇’とし、「ロズギル」を‘悲劇?’とした真意もあるのかも。トム・ストッパードの裏ハムレット「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」は、「ハムレット」の哀れな端役ローゼンクランツとギルデンスターンを主役に反転させて、道化コンビがわけのわからぬまま死地におもむく。本公演では第2部となるこの通称ロズギルを、チャップリンの原点でもあるボードヴィル喜劇との親近性から、わけのわからぬ不条理な空間に投げこまれたお笑いコンビの即興芸に託す、というアイデアも機知が効いていて案外、本質を突いている。わたしが観たのは、博多華丸・大吉の回。ハムレットとオフィーリアの自転車二人乗り渋谷109ラブラブ・デートが「尼寺へ行け!」に急変するカナメのギャグ・シーンのきっかけを、花丸・大吉がなんとすっ飛ばして進行してしまう。即興的に一旦時間を巻き戻して軌道修正しなければならない、というある意味芸人殺しのリアル・ハプニングが、状況が飲みこめないまま死の定めへと船出するロズギルと思わぬかたちで呼応して、まことに舞台は生き物、笑いながら珍なるいいものを見たという気分になる。正直、映画になったロズギルよりずっと愉しい。
  • さて次なるは、これまで「ハムレット」といえば、古典的名作といわれつつおそらくロマン派の匂いが色濃いローレンス・オリヴィエ監督・主演の映画版(「おそらく」というのは高校のころNHK教育テレビでの鑑賞ゆえ鮮明に思いだせないから)と、江守徹主演の舞台(オフィーリア役はたしか太地喜和子!)を学生時代に観たきりのど素人のわたしが、にわかな興味からドンキホーテ的に、あるいはロズギル的にハムレットやオフィーリアの胸ぐらへおもむこうと思う。といっても、あくまで今回の舞台で喚起されたもののメモランダムにすぎないでしょうが。

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