身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

ハムレット(渋谷さくらH)外周的考察

  • ハムレット」はシェイクスピアの戯曲のなかでもっとも長いものらしく、ものの本によると完全上演は不可能と断りつつ、6時間近くかかると予想している。今様にスピードアップを図っても、4,5時間かかるといわれる。近年ではケネス・ブラナーの映画版『ハムレット』が243分。ついでにいえば、メル・ギブソンハムレットを演じたフランコ・ゼフィレッリの映画版が132分。オフィーリア役が、前者はケイト・ウィンスレット、後者はヘレナ・ボナム・カーターとまったくピンとこないのもあって、どちらも観そびれたなぁ。とまれ、間をとって3時間の劇にしても、どこを選び、どこを省くか相応の取捨選択が上演台本や演出のレベルで考慮されねばならない。ましてや、ロズギルと二部構成の今回の第一部「ハムレット」は目標1時間半と超スリム。わたしが観た時はおよそ1時間40分だった。上演台本と演出を兼ねた笹部博司氏はどういう策を練ったのか。
  • この舞台のはじまりは、一度観ただけで正確に把握できてるとはいいがたいのだが、おそらくこんな感じだろう。ドイツのウィッテンバーグ大学に遊学していた王子ハムレットの現代の「学友」たちが、彼が母国に呼び戻されたいきさつをスポーツのノリで口々に語りはじめる。その語りが王国デンマークの「牢獄」的状況を大掴みにして、ハムレットが容赦なく巻きこまれる陰謀劇のさなかへわたしたちを一気に引き連れる。興にのった学友たちのお芝居として。「ハムレット」自体が彼らの若くクールな心身を介した一種の「劇中劇」という仕組みだ。そのなかで、陰謀の真相の確証がほしくてハムレット自身が仕掛ける劇中劇は、ミュージカル風に、はたまた落語風に演出される。前段や寄り道をはしょっていきなり渦のさなかへ! というのが「ハムレット」今公演のひとつの特徴ではないだろうか。上演時間の要請として肯ける選択だが、そのため、前ふりや寄り道的なエピソードに脇役・端役を巧みに配してシェイクスピアが塗りこめた、この劇の多層性はいささか失われたきらいがある。とくに、ハムレットやオフィーリアやレアティーズが気づかぬうちにずぶずぶとはまりこむ、国どうしの火種をも窺わせる政治悲劇の側面は薄められていた。
  • この舞台には姿を見せないけれど、先王、つまりハムレットの父親が仕掛けた戦いによってわが父と領土を奪われた、フォーンティンブラスというノルウェイ王子が戯曲には登場する。出番は少ないものの、あのラストの惨劇に彼がさらりと大事な役目を負い、異彩を放つ。今舞台では登場人物を最小限に刈りこんだ結果、謀略の果てにホレイショー(小林十市)以外、なんとみんなが死んじゃう。ハムレットもまた、唯一心を許した親友ホレイショーに歴史の証人になることを託して逝く。実は、戯曲では逝く前にもうひとつ小さな挿話がある。ロズギルを従えた英国への旅の途上、フォーティンブラスの欲得づくではない活力に仇敵の王子である自分が触発されたことを受け、王も王子も亡き後の母国デンマークの未来を、ハムレット自ら遺言として他ならぬフォーンティンブラスに託すのだ。
  • ハムレット、フォーンティンブラス、そしてオフィーリアの兄レアティーズ(あべこうじ)は、親の世代の政争に端を発しておのおの父を失う若者、という相似の関係にある。父を殺した叔父の現王クローディアス(瀬下尚人)が背後で糸を引くのも知らず、ハムレットがレアティーズと図らずも血染めの剣を交えた後、復讐の連鎖を断つように自らの後継としてフォーンティブラスに母国を託すのは、やはり捨てがたい。血塗られた悲劇に一筋の光を添える行為として。今回の舞台に悲劇のカタルシス(浄化作用)は感じなかった。そこが惜しい。それとも、喜劇「ハムレット」の惨劇はあくまで悲劇ではなく、「学友」たちが演じた、権力と愛の争いの、愚かさについてのグロテスク喜劇というべき? 演出的に目指されたのはそのあたりなんだろうか。
  • タップダンスも落語もこなす小林十市のホレーショーが、ハムレットが信をおく友として、どす黒い歴史の目撃者・語り部として、涼やかでシャープな光彩をまとっていたことを付け加えたい。さぁ、まだたどり着けていない地点、気に入ったところを次にこそ書こう。書けるのか? 長谷川純のハムレット高橋愛のオフィーリアの特質について。

_____