身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

ハムレット 長谷川純/高橋愛 考察と賛辞

  • 長谷川純のハムレット高橋愛のオフィーリアの美質は、まず第一に「若さ」だ。いたらないことに苦しみながら「さなか」を生きる若さ。エロキューション(台詞回し・口跡)の美しさをいちばんに求めたいなら、ローレンス・オリヴィエやジョン・ギールグッドを継承する名うてのハムレット役者らの芝居を観ればいい。ここでの課題は、シェイクスピアの流麗な台詞が若い心臓を通過し、いかに生まれたての血潮となって迸るかだ。ハムレットというと、憂愁の、貴公子の、復讐、と連想がいくが、父をあやめて王位に就いた策謀家の叔父クローディアスへの復讐は、ハムレットにとって生きることの目的たり得たか。ラストの惨劇でクローディアスに剣を向けるのは母が誤って毒をあおった後の出し抜けだし、その前も、心の暗雲に耐えられず祈りを捧げるクローディアスの背後に迫りながらも剣を抜くのをためらっている。弱気の虫が騒いだから? 理性が邪魔したから? つんのめるような長谷川純のハムレットを観ていると、とてもそうは思えない。ハムレットには復讐の後に彼を襲うだろう寒々とした心象が、未来を先取りするように見えてしまうのではないか。
  • そもそもハムレットは先王の父が死のうが叔父が跡を継ごうが、基本的には我関せず、ひと月あまりも手をこまねいていたようにみえる。彼の悲嘆の根っこにあるのは、喪に服していた母ガートルードがいとも簡単に叔父に身を寄り添わせたこと、「喪服」や「ため息」や「涙」や「顔つき」の芝居がかったそらぞらしさだ。王冠を奪う叔父の狡さや悪辣さを父の亡霊が告げ、発憤をうながし、地獄に助けを求めたくなるほどのショックを受けてもハムレットは亡霊の言葉を信じ切れず、彼の直接的な攻撃の矢はもっぱら「母の裁きは天に委ねよ」と亡霊がクギを刺した母のほう。毒杯をあおるまで、現王の非道にも自らの欲と罪にも無自覚な、母たる王妃ガートルード。「これを愛とは呼ばせない」、情欲とも呼べない感覚の麻痺、とハムレットが言葉の刃を研いで母をいたぶるシーンはこの舞台の白眉のひとつだが、そんな息子を母は「ああ、狂っている!」としか思えない。なんて烈しい「愛」のすれ違いだろう! と戦慄が走った。
  • 生きてとどまるかぎり、世界の相貌は崩れ、愛の感覚も爛れてゆく。長谷川純のハムレットを観ていると、ハムレットの狂気の演技は、崩れゆく世界、爛れゆく愛との必死の戯れにみえてくる。さもなくば、存在ごと消えてなくなったほうがまし。「生きてとどまるか、消えてなくなるか」が"To be or not to be"の松岡和子訳だけど、その台詞がスキッと舞台から胸に飛びこんできた。死ぬ、眠る、死ぬ、眠る。死のような眠りに、眠りのような死に、ほうっておくと否応なく惹かれてしまう。ハムレットはここにとどまることもできず、どこかへと自分を駆り立てる。今風の「自分探し」なんて生やさしいものではない。「復讐」がその駆動力だ。目標ではなく、あくまで、自分を現実につなぎ留め、ここではないどこかへと駆り立てる駆動力。だから、復讐は引き延ばされる。
  • 執念深い野望家として「天と地の間を這いずりまわり」、何をしでかすかわからない「悪党」。それがオフィーリアに向けての、ハムレットの若くて偽悪的な自己評価だ。復讐を果たした未来の自分が彼にはありありと見える。貴公子らしく、武人らしく、美徳を接ぎ木しても、母や叔父の血を継ぐ罪深く傲岸不遜な根元は残る。「尼寺へ行け。ああ、罪人を産みたいのか?」。ハムレットは悲しい過去に鬱々とするメランコリックな王子様なんかではない。オフィーリアとの結婚という未来までを先取りしてわが身をさいなむ、前のめりの自己喪失者なのだ。ただし、その病理を舞台上で分析したり切開したりするわけじゃない。分裂や矛盾や飛躍をひっくるめた若年の血が、客席からハムレットに脈打っているのを感じる。
  • それにしても、「尼寺へ行け」が変化をつけて5度繰りかえされるハムレットの狂熱の長台詞は、彼を信じ、国民とともに「気高さ」「希望」「バラの花」として王子様を仰いだオフィーリアにとって、なんと残酷な効果をあげることか。ハムレットに「森の妖精」と呼ばれた高橋愛のオフィーリアは、彼女の過去作からブレーメンの森が似合う快活な少女期を連想させる。が、ほどなく「心からお前を愛したこともある」と「お前を愛したことなどない」の間で無残にも引き裂かれ、父ボローニアスの変死までが追い打ちをかけて精神のバランスを失う。愛するふりも狂うふりもできないオフィーリアの装いのなさは、腹に一物あってふりをする者たちばかりが集う「ハムレット」の特異点だ。彼女の正真正銘装いのない「ものぐるい」の無償性を、意味を裏切ってやや手垢にまみれた言葉ではあるが、あらためて「無垢」と定義してみたい。高橋愛のオフィーリアは、王宮の床に這いつくばってのたうったり、髪をかきむしったり、これみよがしな狂い方をしない。薄もやが震えるような愛と哀悼の「歌」を触媒として、「無垢」なる狂気へとひといきに下降してゆく。無駄な動きのない「静」のオフィーリア。だから余計に、寂寞たる永遠の別離に寄り添うシンギング・アクトレス高橋愛の歌が、どこかコケティッシュな肉感性すら伴って胸の奥底に響くのだ。嗚咽がこみあげてくるほどに。
  • オフィーリアの兄レアティーズへの語りかけに発して王妃ガートルードが独白するあの有名な川辺のシーン――記憶の彼方に消えたオリヴィエのクラシック映画『ハムレット』でも、ジーン・シモンズ演じるオフィーリアが歌を口ずさみながら仰向けに川を流れてゆく、その頭の先のヒナギクをカメラが映すうちに彼女は川に沈んでしまう、という美しいシーンだけは覚えている。オフィーリアの川辺の散歩と花冠づくり、しだれ柳からの転落、水面から水中への移行、を舞台の中景で(紗幕バックだったか)バレエ的に表現する演出は素晴らしかった。高橋愛のバレエの素養がシンプルに生かされていた。経帷子(きょうかたびら)は雪の白♪♪ のイメージの衣装が、漆黒を背景にしてふんわりと波を打つ。こうして森の妖精は、水の精となるのです。
  それからあの娘は柳によじ昇り、しだれた枝に花冠を掛けようとした途端
  意地の悪い枝が折れて
  花冠もあの娘も
  すすり泣く流れに落ちてしまった。裳裾(もすそ)が大きく拡がって
  しばらくは人魚のようにたゆたいながら
  きれぎれに古い賛美歌を歌っていました。
  身の危険など感じてもいないのか
  水に生まれ水に棲む生き物のよう。
  でも、それも束の間、
  水を含んで重くなった衣(ころも)が
  可愛そうに、あの娘を川底に引きずり込み
  水面(みなも)に浮かんでいた歌も泥にまみれて死にました。
        【「ハムレット」王妃の台詞(松岡和子訳 ちくま文庫)】

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