身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

さや侍  監督・脚本/松本人志 感想

  • 野見隆明演じる野見勘十郎は切腹の場にのぞんでも辞世の句を詠もうとしないが、映画を観終えると『さや侍』という作品が父となった松本人志の「辞世の句」のようにも思えてくる。これは不思議と後を引く映画だ。わぁ、ここんとこ下手っぴやん、って何度も突っこみたくなったのに。たとえば、キャラの濃い賞金稼ぎの刺客が3人現れて勘十郎を追うのだが、一瞬でもっていかれちゃうような脇役としての存在の強さを決定的に欠いている。もったいない。勘十郎の一人娘たえが、刀の鞘しかもたない脱藩侍の父をみっともないと呆れつつサポートする大事な役目を担うのだが、熊田聖亜という子役のうまさに依存しているだけで、子ども本来の輝きを生かせていない。ああ、子役芝居だなって感じ。もったいない。藩主に捕縛され、一日一芸の刑を受けてスベりまくる勘十郎が大仕掛けの「人間大砲」に行きつく。いよいよ加速する決死のナンセンス・コントに、たえの心が動くシーン。弾こめて、ポットン! ってな既視感のあるみすぼらしさが、不発の可笑しさをかもす。いいぞって思う。けれど、その瞬間を、いろんなアングルから複数のカメラで狙ったショットを繰りかえして見せるやり方は、いかにもTVにありがちで安っぽい。選びぬいたこのショットとこのショットだけをアクションつなぎで組み立てるなりして、このタイミングで使う、といった切りつめた瞬間・瞬間の勝負を映画ならしてほしい。もったいない……。
  • でも、母を亡くし笑顔をなくした若君を30日のうちで1度でも笑わせたら放免、さもなくば切腹、というワンシチュエーションの生き死にの狭間にあって、「切腹を申しつける!」の家老の声が仰々しく響き渡って今日も日が暮れる――その不発の笑いのリフレインがだんだんクセになってくる。身体に馴染んでくる。超絶アホっぽいことに身体を張る下級侍に、死神に魅入られたみたいな素人芸人の、なんていうのか、無能無芸・無為無策の魂が宿りはじめる。次々にふすまを破って若君にカステラを届ける芸。アクションはスムーズに進まずに混濁する。笑いは決して爽快に突きぬけたりしない。けれど、無表情な若君の心持ちが薄気味悪くちらっと動くように、こっちも胸のあたりがざわっとする。アンチ・コメディ、アンチ・アクション、アンチ・カタストロフィ。アンチ尽くしで、いったいこの映画はどこに着地するつもりなのだろう? 最後の最後に笑いをとって無罪放免、なんて最悪の予定調和になりかねない。そこをかいくぐってスカッと笑いをとってみせるのか。それとも……。詳しくは書かずにおくが、松本人志が選んだアンチ・クライマックスの珍景は気に入った。苦笑や哀傷をふくんだ面白さがあった。若君が○○が好きならばせめて伏線くらい張ってほしいとか、恩寵のようにやってくる風の起き方をもうちょっと工夫してほしいとか、不満点もあるけれど。
  • 松本人志の映画を観ていると、まっちゃんは予算が削られ自由度の縮減したTVで出来なくなってしまったコントの延長線を突き詰めたいのであって、映画はそのための手段に過ぎないのでは、と思うことがある。たとえば、北野武の初期の映画なら、『その男、凶暴につき』にしろ『3-4X10月』にしろ『ソナチネ』にしろ、本人の言葉を交ぜて言えば、「未熟」だからこそ手垢のつかないハダカの映画が「突然変異」みたいに顕現する気味があった。松本人志の映画にそういうおののくような「顕現」の感じはいまだない。監督・松本人志は、ちっぽけなものやくだらないものの壮大な楼閣の実現、独我論みたいな奇想のこしらえ方が大事なのであって、俳優という「他者」には基本的に興味がないんじゃないか。そんなふうに思うこともある。だが、ここ最近の巧みになった北野武の映画より、巨大風車と戦うドンキホーテ的な松本人志の映画にわたしは惹かれてしまう。いささか強引ながら(こちらは一応の伏線がある)、思いがけない登場人物が勘十郎になり代わってその境涯を熱っぽく詠じるラストシーン。あれは川を隔てた娘の視線が効いていて、その黄泉の川に至るまで、父の足跡を幼い娘がたどる姿をオーバーラップでつないでゆく、台詞のない一連の流れが好きだった。野見のおっさんは一言も発さない役にしたほうが、ラストがよけいに生きたんとちゃうかなぁ。

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