身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

王様ゲーム 熊井友理奈/鈴木愛理 感想

◇「若さ」という罰にシンクロする女の子◇

  • バタバタの仕事が中休みって感じでぽっかり開いた。普段から土日なんて関係ない仕事をしてると、こういうとき、時間の有効な使い方がわかんなくなり、結局寝て終わるのがオチ。六本木まで出向いて映画祭に行けばいいのだが、金曜の冷え込みにやられて腰が重い。今年の東京国際は日本で公開されそうにないのを5本どうにか観てハズレがなかった。新旧傑物の映画のお手紙交換『メカス×ゲリン 往復書簡』と、賛否必至ながら仏若手女優たちの脱ぎっぷり(女優としての肝っ玉)に酔える『ある娼館の記憶』を観ることができたのは大きい。書きたい映画はいろいろある。たとえば、今秋のメジャー系では断然お薦めの『猿の惑星 創世記』は、あの『猿の惑星』の前日談だ。地球はいかにして「猿の惑星」になりしか? かつての近未来に現在が追いついちゃった、という設定も上手い。主役はチンパンジーだが名脇役風にゴリラも登場するから、ゴリラLOVEの中西香奈ちゃんにもお薦めできる。ろくでもないものばかりが上位に来る日本の週末ランキングの、映画興収トップをこれが3週も保ってるのは快挙だろう。ルパート・ワイアットというほぼ無名の若い監督の才能を見ぬいて、こんなビッグバジェットに大抜擢したプロデューサーの見識にも頭が下がる。バジェットに笑うほど差があるものの、ハロー系周辺もここんとこ映画づいているようで、無名の若い監督が名を連ねている。でも、あまりこちらの嗅覚を刺激してくれない。無名の若い監督は使い勝手がいいから使う、なんていうんじゃダメ。ちゃんと才能を見ぬかないと。公開初日を迎えたBuono!主演『ゴメンナサイ』の安里麻里監督はBS-TBS系でキラリ光る作品を撮っいて、ちょっと出来が気になりますが……。
  • 映画は脚本とともにそれを画面の連なりとして具現化する監督が大事、というごく当たり前のことをわかってないネームバリュー先行の企画が多すぎるよなぁ、ってつい前フリが長くなっちゃった。ゴメンナサイ。12月17日公開の『王様ゲーム』はジャパニーズホラーの功労者である鶴田法男が監督だから、原作のネームバリューを何も知らないままひとあし先に観た。突っ込みどころ満載だが、かなり怖くて楽しかった。低予算+タイト・スケージュールの悪条件下なんとか面白い映画を届けたい、という現場のサムシングを感じる。わざわざこの映画を選んで取りあげるのは、われながら物好きとしかいいようがないけれど。要所において、ネタバレは寸止めします。ゲームの規則は、素っ気ないほど単純だ。ターゲットになったクラスのメンバーに「王様」から携帯メールが一斉送信される。一通につき命令がひとつ。命令には絶対服従。期限は各々24時間。途中棄権は不可。○○が△△に愛の告白をしろ! なんておふざけめいた命令は、キスせよ! エッチせよ! 殺せ! と徐々にきわどくエスカレートしてゆく。命令に背けば存在が抹消される。さて、どうすればこのゲームは「終わる」ことができるのか? そもそも王様とは誰か?
  • ある日、突然ターゲットにされたのは某高2年B組。なぜ、ほかならぬこのクラスなのか? そのあたりはかなり曖昧だ。問答無用の仕打ちにあったクラスは、初めのうち退屈しのぎのお遊びとしてタカをくくっているが、背いた者が容赦なく消去され、見えない王様の暴君ぶりがむきだしになるに連れ、悪意と相互不信が増殖してゆく。自分も危機に直面しながら、登下校いつもいっしょの幼なじみの信明(桜田通)と、王様ゲームの核心へとアクションを起こす活発な女の子、智惠美役が熊井友理奈。図書室にひとりでいることを好み、クラスのみんなとは一歩引いたところから、王様ゲームの核心をまさぐる思索家の女の子、莉愛(りあ)役が鈴木愛理。このふたりが主役、準主役という目立ち方をする。あと目立っていたのはごく限られていて、いちおう集団ドラマなのに脇のキャラクターが弱いのがこの映画の弱点、その1だ。脇でわずかでも見せ場があった人物を列挙してみると……。菅谷梨沙子演じる学級委員長・真美。クラスのまとめ役だが、演技面でもアンサンブルを引き締めてる。監督に信頼されてるね。中島早貴演じる佳奈。追いつめられ方がさばけてる、っていうか「存在の耐えられない軽さ」を感じる。岡井千聖演じる香織。使命感から来る殺意を宿す。智惠美と信明とともに、かつて王様ゲームが吹きわたった廃校を訪ねる。校内の水たまりが水鏡になって3人を怪しく映すショットがいい。矢島舞美演じる玲子。ワンショット出演のチョイ役なのにおいしすぎる。引き画の面影がまぶたに残っちゃう。
  • 主役の智惠美演じる熊井友理奈は、良くも悪くも熊井ちゃんだった。わけわかんない重荷を背負わされた苦悶の表情に、だりぃーなぁ、というどこか子供っぽい投げやりさがあって、周囲の切迫感と釣り合わないようで釣り合ってる、そのゆるーい戸惑いの雰囲気がいい。青春期のするどさと、おぼつかなさが同居している。白いシャツと「青春なんて、キモチ悪い。」の名コピーが似合った、ベースボールベアー・スポットCM《こちら》熊井友理奈に通じるものがある。でも、芝居場になるとボロが出る。幼なじみのボーイフレンドを助けるため、服を脱げ! という命令に応えようとするシーンなんて、カメラがぐっとにじり寄ってこちらが思わずドギマギする見せ場なのに、画面がサスペンスに震え出す手前でおままごとみたいに終わってしまう。こういうきわどさを服を脱がずにいかに演じるか。見せずにおくことを通して、いかに緊張を持続させるか。もっともこうなると熊井友理奈の演技力のせいというより、本質的に演出の問題に帰せられるべきだろう。総じて演出が演技者と対決する肝心かなめの一歩手前に留まっているのが、この映画の弱点、その2。この弱点は、ありふれた葛藤劇にはしないという強みにも転じる表裏があるので、急いでそのことに触れておこう。
  • 王様の命令に背いた者は抹消される。死ぬというより、単に消えてゆく。忍術映画の古典以来、消えるというのは映画にあっては簡明至極のトリック。編集や画面処理でなんとでもなる分、効果的に使わないと役者の見せ場、アクションの見せ場を殺いで手応えがなくなってしまう。どんなふうに死ぬのか。せめてどんなふうに消えるのか。先に列挙した人物たちはまだ、その「終わり方」に刻印がある方なのだ。逆に見れば、どんなふうに死んだか、どんなふうに消えたかすらわからずに、ひとりひとりが居なくなるあっけなさ、手応えのなさこそが、教室のリアルといえるのかも。まるで消えた生徒など前から存在しないかのように、担任教師は振る舞う。生徒の持ち物までも消える。机も椅子も間引かれ、人口密度が減って教室の空間がが徐々にがらんとしてゆく。これがかなり怖い。教室シーンは引き画を基本にして芝居のアンサンブルで見せてゆく堂々の演出だから、がらーんとした空間が増してゆくその引き画のいびつな変容ぶりが怖いのだ。おどろおどろしい仕掛けがない分、余計に。しかも、その画面を「王様」がじっと見ている、という視線を感じる。蛍光灯に照らされたのっぺらとした引き画は、敵意を込めてほくそ笑む王様の「見た目」じゃないか。呪いを与えし何者かがそっと学校の教室や図書室を窺っている。ぞっとするようなそのメタレベルの視線を、日常のレベルで感じさせるのが鶴田演出のお手柄だろう。「写真」と「手紙」に導かれて、「転校生」と「廊下」がキー・イメージとなる終わりなき「終わり方」もひんやりとして見事なのだが、これ以上は書けない。
  • 最後にひとり、とっておいた。鈴木愛理演じる莉愛。友だちがいない。クラスで孤立している。冷ややかな観察者であり、分析者であり、あの引いた視線は莉愛のものじゃないか、と思わせる。王様ゲームの「原理」とは? と莉愛は曖昧な笑みを浮かべて問いかける。そんなの問われても、熊井ちゃんに、失礼、智惠美にわかるわけがない。王様ゲームの原理とは、端的に「支配欲」を満たすことだろうか。そうじゃないはず、と莉愛は物思いに沈む。むしろ、王様に永遠の罰を与えることでは? 何それーっ? って観てるこっちも思う。観客の推理を根本から崩しにかかる。感情をおもてに表さないポーカーフェイスに、謎めいた微笑みが浮かぶ。何を企んでいるのか、何も企んでいないのか。顔が遮蔽され、妖しい笑みをまぶたに湛えた片眼だけがスクリーンに揺れている。演技をつくり込まず、莉愛としてごく自然にスクリーンを占有する。それだけで、莉愛自身が光と翳りをまとうように空間全体が移ろい、変化する。その冷たい笑みに、カメラが吸い寄せられてゆくのがわかる。サンシャイン劇場でこの前観た塩田泰造演出『戦国自衛隊 女性自衛官死守セヨ』の、「バカでのろま」を原点に、見えざる滝を背負った清新なリーダー若月役もよかったが、クールで利発を原点に、見えざる闇を背負った神秘的な莉愛役はまた格別だ。撮影は『戦国自衛隊』が稽古に入る直前までやっていた模様。聞くところによると、鈴木愛理はいつも優等生役しか来ないからこの役がうれしい、と休憩時間もBerryz℃-uteの仲間から離れて、役の心とともに在ったのだという。「女優」の欲が出てきたのかも。悪魔と神、邪悪と慈愛の間を、あわてず騒がず、ゆらゆら漂う感じがいい。かっこつけて演じようというクセがない。吸収力がある。演劇も映画もいけるね。

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