身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

ステーシーズ 少女再殺歌劇 6/9夜

前説――そして、詠子と渋川

  • 土曜の夜、西新宿地下のコーヒーショップでひとり、たったいまスペースZEROの客席で浴びたばかりのの銀色の鱗粉と、ハーブティと血の香りによる酩酊状態をどう醒ませばいいのか計りかねて、買い求めたパンフを読み込んだりとっ散らかったメモ書きをしていた。満員の客がいつしかまばらになった店内にも気づかずにいた。閉店時間です、申し訳ありません。白菊を敷きつめた床に素足を投げ出し寝そべったロココチックな白いドレスの少女たちの見開き全面写真に怪しげな書き込みを続ける年齢不詳・職業不詳の男をいぶかるふうでもなく、カラッとした笑顔の一瞥を投げかけてきたのは、工藤遥の5歳年上の姉という風情のショートカットのバイト風女子だった。店の奥まで下げようとしたプレートをさっと駆け寄って受け取る仕草が、ダンスするように優雅だった。「ありがとう」と言ったら目元涼しく微笑んでくれた。イヒヒウフフとそのままニアデスハピネスで応じてくれたら、と一瞬期待した。ばーか。
  • 大槻ケンヂの原作小説のスプラッタ・ホラー色をミュージカル・スタイルに昇華した末満健一脚本・演出のダーク・ファンタジー『ステーシーズ 少女再殺歌劇』は、あり得ない企画が奇跡的なタイミングであれよあれよと実現した夢の精華だと思う。関西に面白そうな演劇集団があると聞きつけたのか、昨年のピース・ピット東京進出の折りにたまたま舞台を観たのか。アップフロントのプロデュース・サイドと末満氏の出会いがあり、末満さんからの「ステーシーズ」という長年あたためていた企画の提案があったこと。丹羽多聞アンドリウ氏が日本初公開時に、ジョージ・A・ロメロの初期ゾンビ三部作の2作目にあたる『ゾンビ』(原題ドーン・オブ・ザ・デッド、これが1979年日本初上陸のゾンビ映画)を観て、いつかゾンビものをやりたいと漠然と思っていたこと。モーニング娘。がスキル最大値のプラチナ期を経て急速な若返りを図り、当の新メンバーが急速に伸びつつあり、年一ペースの演劇に冒険的な企画を求めていたこと。そんな娘。思春期の「いま」と思春期の娘がゾンビ化するという題材が、ゆるしと裁きを経てひとの新たな地平を示唆するテーマ性が、ぴったり一期一会にハマったこと。奇跡的なタイミングとはそういうこと一切を指す。
  • 舞台版『ステイシーズ』は「詠子と渋川」「モモと有田」「ドリューと祐助」の3つのエピソードと、「ホスピス」以降の長めのエピローグから成っているといえるだろう。「詠子と渋川」の第1エピソードは第2と第3エピソードを串刺しし、「モモと有田」の第2エピソードは「ドリューと祐助」の第3エピソードにも組み込まれ、それぞれがエピローグに束ねられる。大槻ケンヂの小説「ステイシーズ 少女再殺全談」の核心や夢魔的感覚を壊さないよう、演劇がなしうる重層性をもってこれを再構成している。原作に対して愛があり、批評意識がある。技芸に裏打ちされた創意工夫には感嘆するばかり。数年前、大槻ケンヂの「グミ・チョコレート・パイン」がケラリーノ・サンドロヴィッチ初監督というふれこみで映画化され、そのユルさが意外と面白く(ケラ氏の映画2作目はひどい代物だったが)、勢いでわたしは「ステイシーズ」も読んだのだった。まさかこれがモーニング娘。とクロスするとは! しかも、稽古期間の短さが信じられないほどの、密度のある舞台だった。ドリュー役が喧嘩上等のやんちゃ少女・工藤遙というのは観る前からハマリ役だなぁとは思ったが、田中れいなの詠子も鞘師里保のモモもベストキャストといいたい出来だった。音楽・音響・照明・振付・所作・台詞、すべてが渾然となって訴えかけてきた。近づきすぎたら致命傷を負いそうなほど危険で、なおかつ美しかった。
  • 原作の序章で「僕」という一人称で登場する渋川(河合我聞)は、舞台版では劇全体をつらぬく視点人物になっている。当事者にして目撃者。渋川の眠りのなか、原作冒頭にもあった珍妙な「ミルクコーヒーダンス」が夢見に現れる。あれはバンドネオンが奏でるタンゴだろうか、娘たちが両手に牛乳瓶とコーヒーカップを持って陽気に踊りだす。かと思えば、不協和音の一撃とともに横二列の屍(しかばね)少女となってブルーライトの下、まるでギリシャ悲劇のコロスのようにステイシーの由来を告げる。真のオープニング・ナンバーが「悪夢のようなパペット・ショー」の幕開けを歌うと、夕刻の公園のベンチ、会ったばかりの詠子の膝枕で眠りに落ち、「夢のなかでどろどろに溶け」ていた渋川は起きぬけに、再殺の権利を引き受けることをバーターにして詠子に再プッシュされる。「私がいる間は安心して眠っていい」からと。眠りたい。安眠したい。でも、ひとがそばにいると眠れない。だから、他人に興味がないふりをしてひとを避けてしまう。そうして、夢の中の夢の中の夢……という無限遡行に自閉してきた渋川が、詠子を通して「生」や「死」や「愛」のきわきわに向きあうのだ。死を直前にした少女を襲う不思議な多幸感「ニアデスハピネス」を発症しつつある詠子は夢のさなかのように歌いだし、渋さん、一緒に踊りましょ、と踊れない渋川をワルツに誘う。このあたりで早くもわたしは胸がいっぱいになってしまい、涙があふれてきた。以後、劇中幾度も嗚咽を抑えるのに苦心することになる。
   愛するものが死んだ時には、
   自殺しなけあなりません。

   愛するものが死んだ時には、
   それより他に、方法がない。

   けれどもそれでも、業(?)が深くて、
   なほもながらふこととなつたら、

   奉仕の気持ちに、なることなんです。
   奉仕の気持ちに、なることなんです。

   愛するものは、死んだのですから、
   たしかにそれは、死んだのですから、

   もはやどうにも、ならぬのですから、
   そのもののために、そのもののために、

   奉仕の気持ちに、ならなけあならない。
   奉仕の気持ちに、ならなけあならない。
                      (中原中也「春日狂想」より)
  • 30歳で夭折した中原中也が死の数ヵ月前、おそらく愛児の死を悼んで詠んだ詩の冒頭節が、愛するひとを再殺して狂った「詩人」→再殺部隊の隊長→渋川の記憶のなかの詠子と詠み継がれ、烈しく淋しく冴え冴えとした子守唄みたいに劇の背骨を震わせ続けるのもいい。中也の詩集は学生のころ、山裾の農家の下宿でよく読んだ。なんて昔語りは恥ずかしくもあるから早々に切り上げるとして、原作では、奉仕の気持ちになってはみたけど格別のことなどできやしない、「まるでこれでは、おもちゃの兵隊、/まるでこれでは、毎日、日曜」と引き続き断片的に詩が引用され、詠子と渋川のアイロニカルな行く末に重ねられる。その絶望と安寧の微苦笑という境地もわたしは嫌いではないが、舞台版はそれとはきっぱり方向を異にする。絶望と希望をない混ぜた創意ある着地の仕方まで、わたしはこの感想ブログを書き継ぐことができるだろうか。来る8月の大入り感謝祭に向けて、9月の舞台版DVD発売に向けて、さらにはれいなさんも末満氏も切望するまたいつかの再演の可能性に向けて、気長に取り組もうと思う。娘。たちは50枚めのニューシングル「One・Two・Three」 リリースに向け、時流よろしく普段より過酷な握手会に駆りだされるようだけど、中也の長詩「春日狂想」はこんな風に戯れ唄めいて締めくくられます。
   ではみなさん、
   喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
   テムポ正しく、握手をしませう。

   つまり我等に欠けてるものは、
   実直なんぞと心得まして。

   ハイ、ではみなさん、ハイ、ご一緒に――
   テムポ正しく、握手をしませう。
                       (同上)

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