身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

ステーシーズ 少女再殺歌劇 考察(二)

しゃべるステーシー ――モモと有田

  • 大槻ケンヂ著『ステーシー 少女ゾンビ再殺談』の首胴尾の胴体部分をなす「ステーシーの美術」は、全寮制女子美術学園の廃墟化した体育館や校庭で、13体の動く屍少女=ステーシーをロメロ再殺部隊が次々に切り刻む血祭りの場であり、一体のステーシー・モモに殺戮のすべてを見られているのでは? というおののきの感覚以外、物語が大きく展開するわけでもない。部隊は退去命令をひたすら待っていて、いわば救いのない失楽園に閉じこめられている。モーニング娘。による舞台版はいろんな制約から、きっとここを適当にはしょってモモの挿話だけを序章と終章をつなぐブリッジにするのかな、くらいにわたしはたかをくくっていた。ところが、この「モモと有田」の章こそが、「歌劇」の命脈となる肉厚の胴体部分を形づくっていて、心から驚きかつ魅了された。山奥の学園の阿鼻叫喚をブラックユーモアと詩情をこめてショーアップ、狂騒と静寂のうねりが波をなして訪れるのだ。
  • 原作の章アタマに対応して舞台空間を彩るナンバー「リルカは地獄―ステーシー聖歌隊斉唱―」は、ステーシーの検体を研究する学者であり、「パズル屋」の異名をとるほど解体のプロである有田が、「狂気すらも枯れ果て」歌を失くした学園でタクトを振る空想の戯れ唄だ。感情を失った有田の、はかない逃げ場。オルガンのおごそかな音色に導かれ、こんな出逢いじゃなければ 恋人になったかもしれないあなた♪ と純白の衣装のステーシーたちが輪をなして輪唱する、どこまでも透明な少女歌劇らしい聖歌が地獄に立ちのぼる。ひねりの効きまくったその倒錯ぶりにゾクッとする間もなく、ステーシーたちは関節の外れた人形みたいに「静」の構図に収まる。白昼夢から覚めるように、歌は唸り声に一転する。失望した有田は改良型チェーンソー「ライダーマンの右手」を手にステーシー165分割の作業に着手する。この「芸術的」なバラバラ作業に我を忘れて夢中になることが、有田にとってもうひとつの逃げ場なのだ。バレエのように優雅に振付けられた「動」の地獄絵。ふたたびの「死」の静寂を鞘師里保演ずるモモが徘徊し、心のないステーシーの変異の兆しなのか、立ち止まって幼子が泣きべそをかくくような仕草をする。感情の萌したステーシー=モモに、失くしたはずの有田の感情がふとなびくとき、ロメロ再殺部隊がモモを背後から撃ちぬく。その心ない非情さ。静寂をぬう哀愁の弦楽の音色も手伝って、観ていて名状しがたい悲哀感に襲われる。ここでは、ケガレの牢獄に聖なるものが立ち現れては消えるのだ。
  • 原作者の大槻ケンヂは末満健一、田中れいなとのパンフ用対談で、ジョージ・A・ロメロ監督が開拓したゾンビ映画を、10代のころ、なんの取り柄も逃げ場もなく八方塞がりの状況にあった自分に置き換えて「青春映画」として観ていたと語っている。それはとてもよくわかる。ロメロのゾンビもの第1作『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』は日本では一時期伝説化した未公開作で、1980年代のビデオやLDのブームによって日の目をみた。living dead→生ける屍というのが日本語では「死」に属するより「生」の比喩であるように、人肉を求めてうごめく死体は、生気なく生きてしまっている我等の日常→deadly pale lifeを明るみにしてやまなかった。ロメロの凄みは老いてなお、あまたの亜流と一線を画したゾンビ映画を、低予算を逆手にとってつくり続けていることだ。その「先行者の栄光と孤独」をわたしは逐一フォローしているわけではなく、ざっくりとしかいえないけれど、そこではもはやゾンビの居る暮らしが日常化していて、男たちはゾンビ狩りに快楽を見出して精神の荒廃をやり過ごしていたりする。ロメロの初期ゾンビ映画の「生」の気分を詠子に出会うまでの渋川が担っているとすれば、近年のロメロ・ゾンビ映画の気分は有田に対応しているといえるのではないか。渋川は平穏な日常に倦んでいて、有田はいわば日常化した戦場に倦んでいる。原作小説では「都市部ではついにナパーム弾の使用が……」の無線連絡が学園に入る。それでも敵を顔がなく、心がない有象無象と思い続けるかぎりにおいて、刹那の狩りと解体に快楽を感じていられる。けれど、もしその有象無象に親密な「顔」を思いがけず発見してしまったならば……。
  • 都市部では百万のステーシーが押し寄せ、ここ山郷の学園でも囚われのステーシーが狂った倉庫番によって解き放たれた。ロメロ再殺部隊は銃弾も尽きて絶体絶命の状況。そこに、あの哀愁の弦楽の音とともにモモがしゃべるステーシーとして再臨する。ハーブティの香りと鱗粉の薄紫、そして天上的な乳白色と黄金の光に包まれて。ピアノの鍵打音が硬質のリリシズムをおびて粒立ち、「キマグレ絶望アリガトウ」のソロの歌声が預言のように、ろ過された哀しみのように、我等・ならず者たちの胸に沁みわたる。ここから「今日の日はさようなら」の合唱にいたる流れは、ひたすら哀しく、靭く、美しい。もっとも、こういう性急な讃嘆には危ない落とし穴もある。神様は「気まぐれにあたしたちをゆらゆら歩かせて人を食べさせてそれを眺めてご満悦なの♪」「あたしたちが死ぬのもあなたたちが殺すのも神様のきまぐれ♪」――「神様の気まぐれ」という言葉は、原作を読めばより明瞭だが、運命を受け入れ、能動的に関わろうとする変異型ステーシー、モモが先行者として発信する世界認識だ。男たちもあいまいに「神様の気まぐれ」を口にするが、理不尽な運命に虚無的に応対するばかり。感情を捨て、自責の念を握りつぶして酔狂な殺しを重ね、内側から荒廃してゆく。彼らはいわば神なき世界を生きていて、きっと信じてもいない気まぐれな神様やら人形遣いにゆるされるくらいなら、手をかけた少女たちにゆるされたいだろう。ゆるしを得て大団円なら、モモの降臨は、その願望充足に見合った都合のいい男の幻想に回収されてしまう恐れがある。でも、そんなふうには収まりのつかない峻厳な魅惑が、確かにこの舞台にはある。
  • モモは再殺部隊の男たちの前に救い主のように現れるが、決して天上からすべてを見通す超越者ではない。あくまで地上を徘徊するステーシー=屍少女。モモの身体には、忌むべきものと聖なるものが危なっかしく、アンビヴァレント(両義的)に折り重なっている。アイドルは本来、はかなく危なっかしいもの。キャラづけなんていうのは、マス対応の手っ取り早い認知手段か延命措置に属するのであって、その本源は、思春期の実存を賭けるような瞬間の輝きにあると思う。ふらつき、脱力しながらも超然としたモモは、思春期の未熟さと歳に見合わぬ老成を、思春期の透明さと透過しえない混沌を生きる鞘師里保の「瞬間の輝き」と一体だ。「色の反転した満月のような黒目」(原作)で、モモは世界をまなざし、認識し、アナウンスする。ほんとはみんなでキャンプファイアーでもしたかったねと、こうあり得たかもしれないささやかな可能世界を現在完了形で語る間奏モノローグの口跡の、技巧的じゃない真っ直ぐさがいっそう胸に沁みる。マイムマイムなんか踊って「即席にできあがった恋人たちがキスをして肩を抱きあって頬を撫であって……朝が近づいてきたら恥ずかしげもなくみんなで『今日の日はさようなら』を歌い、また会えるかなんてわからないのに無二の親友のように朝焼けを見る……」。
  • きみはぼくが再殺した妹によく似てるんだとひざまずく有田を、あなたはステーシー制圧という使命を果たしただけ、苦しむ必要はない、「ぜんぶ私がゆるしてあげる」と、モモは「私」にアクセントを置いて包容する。神様に逆らってでも、ほかならぬ「私」だけはゆるしてあげるとでも言いたげに。そうしながら、モモはステーシーの使命を果たすように有田の肩口に容赦なく噛みつくのだ。降り注ぐ乳白色の光に代わって、舞台奥の照明から鮮血の赤が閃く衝撃。ああ、無情。それもまた神様の気まぐれ? いや、モモがまとう抒情と悲劇性には、運命を受け入れながらそれを乗り越えてゆく、「私」と「あなた」の、不可能と境を接した愛の試練が胚胎していないか。「でも、そうはならなかった」とモモが決然と語ったごとく、ステーシー・コーラス隊の「今日の日はさようなら」が、もはや不可能な、現実には歌われなかった歌であればこそ痛切に心に響くように。モモにとって「私がゆるしてあげる」は、「私が殺してあげる」と等価なのかも。感情を自ら殺して再生できない有田の、身をくねらせ、のけぞらせる断末魔はある種の法悦を感じさせもする。こんなふうに、「聖母のように佇むステーシー」と「子供のように泣きじゃくる男たち」の構図は、「ごめん」というのが癖で、兄さんはそうやってまたすぐ謝るって妹にたしなめられてきた有田と、それがどんなに逆説的でも「ありがとう」という言葉から語りはじめるモモ――安定した構図に収まり切らない「兄妹」ふたりの苛烈な愛の体験とともに提示される。
    平気で、陽気で、藁束のやうにしむみりと、
    朝露を煮釜につめて、跳起きられればよい!

    …………

    おお! 私の聖母(サンタ・マリア)!
    いまさらどうしようもないことではあるが、
    せめてこれだけ知るがいい――

    ごく自然に、だが自然に愛せるといふことは、
    そんなにたびたにあることでなく、
    そしてそのことを知ることが、さう誰にでも許されてはゐないのだ。
                   (中原中也「盲目の秋」より)

 ※長丁場になりそうなので、いちおう構成をたててみました。

 1.前説――そして、詠子と渋川
 2.しゃべるステーシー ――モモと有田
 3.しゃべるステーシーPart.2――砂也子と祐助
 4.無垢と粗暴――違法再殺少女ドリュー
 5.初デートの誓い――再び、詠子と渋川
 6.幽霊と啓示――ステーシーたち

_____