身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

ステーシーズ 少女再殺歌劇 考察(三)

ゾンビリバーの濁流にゆられて――砂也子とモモ

  • 石田亜佑美演じる砂也子は、恋人・祐助がかくまう女子高生のステーシー、原作ではほんの端役に過ぎない。砂也子を詠子・モモ・ドリューと並ぶ第四のヒロインともいえる重要な役に膨らませたのは、この舞台が原作とエピローグを異にする端緒ともなる創意といっていいだろう。もう少し正確にいえば、舞台版・砂也子は「しゃべるステーシー」としてモモと一対になっていて、原作ではややあいまいに生き延びて有田と添いとげ、その語録が新しいバイブルともなるモモを継承する役どころなのだ。もう一言いい添えれば、原作のモモは有田の妹とよく似ているんじゃなく、有田が再殺した恋人とその横顔がそっくりで、ふたりの道行きを砂也子と祐助が受け継ぐことになるわけだ。舞台では、再殺部隊に入隊した渋川によって、あろうことかモモが再殺されたことが、幾つかの事後報告のひとつとしてフラッシュバックする。そのあっさりと乾いた点描が、かえって救い主の受難の悲劇性を際立てていた。媚びたところ、甘えたところのないこの舞台らしい決着のつけ方だ。
  • ところで、砂也子がモモと一対というのは「継承」の側面だけではない。砂也子が担う役割のアクセントは、むしろ以下のほうにある――。大槻ケンヂの文庫本『ステーシーズ 少女再殺全談』には『少女再殺談』の本篇に、後に書かれた2つの「ステーシー異聞」が加えられている。そのひとつ「ゾンビ・リバー」は全篇中もっとも罪深いエピソードでありながら、無視しがたいイメージの密度がある。大槻氏自身、「ゾンビ・リバー」をいつか「CGを一切使わずに、人形か人間を使って完全映画化してみたい」なんて野望を語っていて、おそらく本篇に書ききれなかった、ひとつの振り切れ方がそこにはある。ステーシー現象が終息して3年、ある時期を境になぜステーシーが爆発的に増殖したのか、ちまたに拡がる仮説のなかでひときわ異貌のものを少年の証言に基づいてレポートする、という語りのスタイルだ。軍事オタクの少年たち6人が非合法再殺隊を組んで、ボブ・マーリーの「ノー・ウーマン・ノー・クライ」なんてCDをかけながら、ワゴン車で座興めいた山狩りをする。もはや職務意識もやましさもなく、屍少女たちは「可愛がり」の玩弄の対象でしかない。笑い転げながら少年たちは骨を砕き肉を断つ。そこに「もう十分でしょ。ね、おやめなさい」と、言葉を発するステーシーが現れるのだ。
  • モモの再来だ、モモ自身が再び姿を見せたのね、とわたしは思っていた。でも、今回読み直してみると、モモが黒く濡れた瞳なのに対して、こちらは「まつ毛の長い」「茶色がかった瞳」、微妙に特徴に違いがある。この名もないステーシーが、偶然か必然か、本人いわくチャームポイントが茶色い瞳という石田亜佑美の砂也子に色濃く反映している。ちなみに、砂也子を逃避行にいざなう舞台版の少年・祐助(白又敦)には、もうひとつの異聞「再殺部隊隊長の回想」に登場する少年・琢馬が反映していて、それについては次章で少し触れることになるだろう。一見舞台化不可能な「ステーシー異聞」をふくめ、細かい言い回しに至るまで原作を徹底的にいいとこ取りして、大胆に、注意深く組み立て直してゆく。その再構築のあり方に、あらためて脚本&演出家・末満健一氏の、原作と真摯に向きあう読みの深さを感じる。そこを出発点にして、舞台は自由に飛翔する。いや、それでは言葉が足りない。高みへと持ち上げられては奈落へと墜ちてゆく――その飛翔と失墜の濁流みたいな運動感こそが、観客を渦中に引き入れるこの舞台の尽きぬ魅力ではないか。
  • 『ステーシーズ 少女再殺歌劇』のミュージカル・ナンバーを思い切って「飛翔」の系譜と「失墜」の系譜に分けるなら、後者のなかでもっとも針が振り切れて心に刻印されるオリジナル曲が「殺戮ゾンビリバー」だろう。山間の学園の捕囚ステーシーが狂った倉庫番によって解放され、都市部では大量のステーシーが暴徒化の一報が入るという絶望的状況下、「殺戮!殺戮!」と連呼しながら男女混声で歌われる。無数のステーシーの裸体群が森を呑み干すほどうねりをあげて寄せては返す、というのが異聞「ゾンビ・リバー」の黙示録的なイメージだ。「殺戮ゾンビリバー」は、大槻ケンヂが映画化に見果てぬ夢を託したこの一大パノラマのイメージを、作曲の和田俊輔と作詞の末満健一が音楽に叩きつけた夢魔のような佳曲である。これを歌い、踊り、食うか食われるかの狂態を演じるティーンエイジャーのモーニング娘。9・10期は、ステーシーであると同時に、狂気のなかに聖性への道筋をつける古代の巫女たちだ。ほどなく、一転の静寂と飛翔とともに、モモのソロとコーラス隊による至純のナンバー「キマグレ絶望アリガトウ」が滅亡世界を満たす。ビッグ・リバーのように流動する、この一連の演劇的ダイナミズムが素晴らしいのだ。
  • 「殺戮ゾンビリバー」の歌詞には、男女掛け合いのなかで「われわれの罪に、かくて神の裁きが下されるのか♪」という男子パートのフレーズがある。モモが男たちに、あるいは人間に「ゆるし」を与えるステーシーなら、砂也子は男たちや人間のゆるしがたさに「裁き」をもたらす。母なる「ゆるし」と父なる「裁き」は神様の二側面だが、もちろん砂也子もモモと同じく神ではない。だが、こうも言えないか。モモという固有名をもつ変異型ステーシーが一神教的世界観に属するなら、名もなきステーシーの側面をもつ砂也子は変異型が偏在する多神教的世界観に属すると。「“私たち”がしゃべるとあなたたちは怖いんでしょ」と、砂也子はぎこちなくわずかに首を動かし、周りを見まわして男どもに告知する。「しゃべるって心をもつってことよ。心がないと思うから、あなたたちはステーシーをないがしろにできる。自分たちと違うから理解しあうことができないと決めつける。ニアデスハピネスの子にしてもそう。何をしても笑っていられるからあなたたちの良心は痛まない。どんな非道も働ける。でも、違うの!心がないステーシーなんていないわ。心がないと決めつけるあなたたちは自分たちのしたことに言い訳がほしいだけ」。そして、なぜ一度死んだ少女が歩きだしたのか? の謎に、「罪人が増えて地獄が溢れかえっちゃったから、こうやってこの世にさまよいだしたの。この世界は溢れだした地獄なのよ」と宣告する。「禅問答はたくさん」と耳をふさぐ隊員に因果応報を示しつつ、同時に、あなたたちの「罪の意識の量」(原作)だけ私たち罪のない少女が供儀のいけにえになる、という不条理を語るのだ。異聞「ゾンビ・リバー」の名のなきステーシーの台詞を微調整し、最大限の効果で生かされている。
  • 舞台経験などからメイン・キャストと決まっていた田中れいな鞘師里保工藤遥に続く第四のキャストとして、メンバー内で脚本読み合わせをして砂也子役に石田亜佑美を選んだ、と末満氏はツイッターでつぶやいている。わたしは映画『野獣刑事』『火宅の人』やTVドラマ『阿修羅のごとく』などを通して歌手出身のいしだあゆみが優れた女優であることを知っているが、石田亜佑美もそうとは知らなかった。あたりまえだ。彼女は演技経験ゼロなのだ。演技センスがずば抜けている、と名指しで褒めた末満氏のツイッターの後追いをするかたちになったのがちと悔しいほど、わたしは自分が女優・石田亜佑美を発見したような気になっていた。ばーか。舞台でもスクリーンでも「ただそこに居ることがいちばん難しいんだ」と、ベテランの優れた役者ほど口にする。演技の引き出しが多くなるほど、舞台の上でもカメラの前でも、何もしないことが不安になって巧さに走ってしまう。それら演技のクセを削ぎ落とし、「私」と不可分の役としてただ存在することの難しさ。削ぎ落とすべき演技のクセがもともとない石田亜佑美は、砂也子として、無名性をおびたステーシーとして、いとも簡単に(そう見えるのが彼女の瞬発力の凄さでもあるのだが)そこに居ることができる。
  • よく「棒読み」という言葉を不用意に使うひとがいるが、日本には老成するまで「棒読み」と言われ続けた笠智衆という名優もいた。わかりやすく抑揚のある演技がいい、なんていうのは先入観に囚われた一種の思い込みで、わたしたちは日常そんなに明快な抑揚をつけてしゃべったりしない。怒りや悲しみをぶちまけるしゃべり方より、抑揚型でも棒読みでもないフラットなしゃべり方に、いっそう強い憤怒や悲嘆、哀歓までもが秘められていたりする。石田亜佑美はステーシーのポーカーフェイスを貫きつつ(工藤遙のドリューを相手にポーカーフェイスのギャグもかます!)、この世の地獄にふらふら立ちふさがり、フラットな強さをもった長台詞を吐けてしまう。石田亜佑美の砂也子が語ると、たとえ鎖につながれたままでも、思わずこうべを垂れたくなるほどの説得力がある。先に、砂也子は「裁き」をもたらすと書いたが、異聞「ゾンビ・リバー」の名もなきステーシーみたいに、天変地異によって人間を罰するわけじゃない。砂也子の裁きの言葉は圧倒的な暴力に呑みこまれ、彼女は逃亡ステーシーのお尋ね者=モモの継承者となるのである。
  • 砂也子と祐助の逃亡はこの世の地獄のかすかな希望だ。ステーシー化以前の少女も抹殺するという追加決定を、「倫理に反する、でもやらねばならぬ」と再殺部隊がついに下す。特殊能力を身につけた少女たちの出現に怖れをなしたから。そんな最悪の「失墜」状態のなか、筋肉少女帯スラッシュメタル「再殺部隊」が、田中れいなという最凶、最強のボーカリストを得て閃光のように戦場を駆けぬける。垂れこめる雲間を白く射ぬく救いの光のような、砂也子と祐助の逃避行と並走して。「あのね、あたしたち好きな人にもう一度会うため歩いただけよ♪」と、娘。コーラス隊が一人称の女子パートで応答する。愁いを帯びて唸りをあげるギターとは連鎖型ソロダンスで、「屍のなかに恋人をみつけた」少年兵の孤独な走りとはバレエ的な武闘で、コーラス隊は競いあう。厚みのあるミュージカルの感興と疾走感! 娘。たちは少女と屍少女の間を往還し、まるで「死」と「生」が、「絶望」と「希望」が、コール&レスポンスするよう。背骨から脳天へ駆けぬけるのは、血しぶきみたいな切なさの感覚……。
おぐろい石に夏の日が照りつけ、
        庭の地面が、朱色に睡(ねむ)っていた。
        
        地平の果てに蒸気が立って、
        世の亡ぶ、兆しのやうだった。
        
        …………
        
        夏の日の午(ひる)過ぎ時刻
        誰彼の午睡(ひるね)するとき、
        私は野原を走って行った……
        
        私は希望を唇に噛みつぶして
        私はぎろぎろする目で諦めていた……
        ああ、生きてゐた、私は生きてゐた!
                            (中原中也「少年時」より)

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