身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

ステーシーズ 少女再殺歌劇 考察(五)

死なないという約束――再び、詠子と渋川

  • 水曜夜はスマイレージ主演の『怪談 新耳袋 異形』の最終試写とかぶっていたけれど、田中れいな鞘師里保工藤遥出演の「『ステーシーズ』USTステージ コメンタリー」のほうを選んでしまう。彼女たちからコメントを引き出して緩やかに統御、方向づける演出家の末満さんがいてくれればなぁ、とも思ったが、ドキドキしながら見入っったり、自分の演技に身もだえてしまう3人を眺めるのも眼福だった。わたしにとって最大の収穫は、モモが有田を襲う酷薄にして秀麗なシーンを、単に「ステーシーの習性」だからというだけじゃなく、「ゆるすことが食べること」という意識をもって鞘師里保が演じていたこと(気になったら《考察二》を参照してください)。好きなひとにバラバラにしてもらう、というレベルで、有田とモモは、詠子と渋川とパラレルな関係にあるといってもいいのでは。田中れいなに問い詰められてたどたどしく答えていただけで、もしかして彼女はとっさのコメントに心残りがあるかもだけど、ここは、れいなグッジョブ! と思った。
  • 詠子と渋川の出会いについては《前説》で触れた。次にふたりに起こる出来事は「初デート」だ。初デートの場は「今日の日はさようなら」のコーラスを、終結部を残して挟みこむように現れる。原作を読めば、リルカ女子学園の「キャンプファイヤー」とは、ロメロ再殺部隊が酒などあおりながら「つぶれトマト」やら「血まみれサンバ」やら「オクトパスショウ」やらにうつつを抜かす罪深い宴会で、その中央を銀紫の鱗粉をまき散らしながら炎が立ちのぼり、校庭の天高くを焦がす。その文脈から、モモによって語られる「今日の日はさようなら」は、前にも書いたが、かくあればよかったけれど地上の少女がついに男たちと肩を組んで歌うことのなかった歌だ。では、わたしたちが耳にしているこの晴朗なコーラスは誰が歌っているのか? ステーシーという名の由来を「捨て石」とするのは、噂のひとつとして原作のどこかにあった。わたしは、ステーシーと「天使」の、響きの類似性を思ってしまう。ステーシーは人肉を求めてさまよう忌むべき屍少女だが、考えてみれば、再殺部隊のアミーゴたちの罪深さに比べれば、ずっとイノセントな存在だ。砂也子の預言に重ねれば、人間の、というかほとんど男たちの罪を「捨て石」として肩代わりしてくれてることになる。石つぶてを投げられるあまたの聖人伝説を思うまでもなく、ステーシーはどこかエンジェリックな、天使的な両義性をおびた存在なのだ。そこからモモという、聖なる進化型が現れる。はたまた、ステーシーたちが天使的なコーラス隊にもなる。
  • 初デートで「私をちゃんと切り刻んでね」って渋川と再殺の「約束」と交わしながら、詠子は中也の「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません」の詩を引いてこんなふうに言う。「渋さんが私のことを愛してくれなくてよかった。だって渋さんは私を殺しても死なずに済むんだもの。ずっと生きて私のことを覚えててね」。『ステーシーズ』パンフレットの大槻ケンヂ×末満健一×田中れいな対談で、オーケンさんが、ゾンビものとアイドルって実はすごく近い関係があって切り離せない、死人がばっこする世界で生きることをどう証しするかというゾンビものの生命観と、いつもキラキラ輝いてて存在自体が生きる証しみたいなアイドルって相性がいい、みたいなことを語っている。その流れで、田中れいなと旧知らしいインタビュアーが「私のことを愛してくれなくてよかった」という詠子と渋さんの関係って、辛いことがあってもみんなの笑顔を願って笑っていなくちゃいけないアイドルとファンの関係と重ならない? みたいに振って、それに対して田中れいながすごくいい反応をしている。「れいな、台本読んでいて、何回もこみあげてくる部分があった、自分がどこに引っ張られて泣きそうになってるのかわからなかったけど、そういうことだったのかも……」と。ファンが一方的に疑似恋愛してアイドルの私生活に裏切られた気になる、っていう一部分だけが拡大されがちだけど、実のところは逆で、「ファンのみんなが私を愛してくれなくてよかった。ファンのみんなは私を殺しても死なずに済むんだもの。ずっと生きて私のこと覚えててね」というふうに、短命を宿命づけられたアイドルの情愛と献身の前にわたしたち移り気なファンが生かされてるんじゃないか。でも、渋川は詠子を愛してしまう。
  • 初デート中に一度目の死が訪れた詠子を渋川がお姫様だっこする――その十字型のフォルムから逆三角形をなしてステーシー=天使たちが「今日の日はさようなら」を歌い終えてふたりを見おろす。それがロココ美術の宗教画みたいに匂やかで優美、それでいてどこか背徳的な「静」の空間を形成する。それは渋川の記憶のなかの空間でもある。舞台では「再殺部隊に志願して数えきれないステーシーを再殺していく」その後の渋川がまず立ち現れる。ていうか、より正確には、まずは詠子の記憶に押しつぶされて頭を抱えるばかりなのだが。詠子と渋川の物語は、出会いを起点にして、一方に入隊後の現実の層があり、他方に詠子との記憶の層がある。これらが「モモと有田」の章やエピローグを重層的に刺しつらぬく構成になっている。ここで大事なことは、有田が抱える記憶は単に綺麗な想い出などではなく、戦場で詠子の霊に常に追い立てられるような、現実よりリアルな夢ということ。「夢もまた強いられた現実」といえるなら、渋川はその「現実」が耐えられなくて「詠子を再殺した記憶を少女たちの血で洗い流すよう」な忘我の地獄に逃げこむのだ。有田という似た者どうしを追いかけるように。けれど、「あの初めての再殺の時に手にこびりついた詠子の血が今でも僕の手にこびりついていて、洗っても洗っても取れないんだ」。
  • 「詠子再殺」というエピローグの記憶の層を語るには、それに先行して現れる現実の層にどうしても触れておかねばならない。「失墜」の系譜のオリジナルナンバーとしては「殺戮ゾンビリバー」と双璧といえる「少女再殺」の間奏で、洗っても洗っても取れない罪の反映みたいな詠子の亡霊に渋川は苦しめられ、亡霊もステーシーも無差別に乱射する。血を血で洗い、罪の深みへ墜ちてゆく。猛禽のように素早く力強い「少女再殺」のユニゾンが終わると、その中心にいた田中れいなが立ち去り際、ブルーライトに照らされ、さっと振り向いて再び詠子の亡霊になり替わる。音楽もさっと憂愁と抒情のピアノ曲に転換する。ここも素晴らしい。亡霊はこんなふうに諭す。「私たちは一度死んで二度死ぬことはできるけど、三度目は殺せないんだよ」。ひとの心に現れるにしろ現実にしろ、ファントム(亡霊・幽霊)は殺せないと言いたいのだ。どうしてぼくに声をかけ、ぼくの前からいなくなったんだ、という背中を丸めての問いかけには、「渋さん、私はね、渋さんの心に傷を残したの。その傷は私と渋さんをつなぐ絆。私たちはあの夏の終わりの日に結ばれたのよ」。そうして、ふふふと笑いながら消えてゆく。
  • 渋川は膝を折ったままこちらに向き直り、背後から赤いライトが照射して彼は自分のこめかみに銃口を向ける。その周囲からステーシーたちが襲いかかろうとする刹那の暗転。1発の銃声。6月9日(土)夜、最初に舞台を観たときの衝撃をよく覚えている。モモが背中を撃たれたとき、モモが有田を食べるとき、詠子が一度目の死を迎えるとき、ドリューが抹殺されるとき。どの「深紅」の光景にも負けず劣らず衝撃的だった。裏の主人公といってもいい視点人物の渋川=河相我聞を、劇の着地点がまだ見えないここで自殺させてしまうのか! という作劇上の大胆さを含めて。でも、モモを再殺し、詠子を三度目まで殺そうとした渋川なら、さもありなん。なにより、彼は詠子を愛してしまったんだから、と思った。その2日後に、普段はやらないチケットの入手の仕方をして急きょ観た楽日前の舞台では、銃声が1発から、まず1発響き一拍おいて7発に変わっていた。自殺をぼかしたんだな、と思った。なぜぼかしたのか、その夜、もしやと思い出したこともあるが、詮索が入っちゃうので書かずにおく。まぁ表現をぼかして解釈を観客にゆだねるのは、映画でも演劇でもよくあることだ。コメンタリーでは、鞘師里保が「あれは渋さんが自殺したわけじゃないから」と歯切れよく語っていた。襲いかかるステーシーたちに気づいて、まず渋川が撃ち、続いて再殺部隊が連射したということなのだろうか。その言にもう少し寄り添えば、渋川は詠子を愛してしまった――にもかかわらず、というべきか、だからこそ、というべきか、「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません」の詩を地で行くよりも、「ずっと生きて私のことを覚えててね」という詠子との「約束」を守ったことになる。
        死の時には私が仰向かんことを!
        この小さな顎が、小さい上にも小さくならんことを!
        それよ、私が感じ得なかかったことのために、
        罰されて、死は来たるものと思うゆゑ。
        あゝ、その時私の仰向かんことを!
        せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!
                                (中原中也「羊の歌」より)


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