身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

ステーシーズ 少女再殺歌劇 考察(四)

「あるがまま」のレッスン――ドリューと祐助

    どっどど どどうど どどうど どどう
    青いくるみも吹きとばせ
    すっぱいかりんも吹きとばせ
    どっどど どどうど どどうど どどう
                          (宮沢賢治風の又三郎』巻頭)
  • くどぅー、またはどぅーこと工藤遥はまだ12歳なのに、お芝居で重要な役を与えられると、これこそ彼女の代表作! といいたくなる印象を必ず残してしまう。一昨年秋の『今がいつかになる前に』(脚本/坪田文、演出/深寅芥)。小学6年女子仲良しクラスメイト(竹内朱莉宮本佳林高木紗友希と振り返れば精鋭揃い)の間に、表の関係とは別の裏の感情が渦巻く放課後、工藤遥の叶多(かなた)はそこにつるむことなく子供なりの正義感の基準をもちこむ、風のような女子サッカー部員で、脚を挫いているというハンデから隻腕・痩身の美剣士を連想させた。昨年暮れの『1974(イクナヨ)』(作・演出/塩田泰造)。新・三種の神器がひとつづつ増えてゆく新築一戸建て中流家庭の娘(中島早貴)と、飲んだくれ親父以外何もないぼろアパートの少年(ゆえあって岡井千聖が変装)の、身分や性差を超えた恋をつなぐ風雲児フジコには、盗み癖というハンデがあり、唯一の肉親である兄さんに存在を否定されて声が出なくなる。ズボンをサスペンダーで吊るした靴磨き小僧風スタイルで、悲しみのあまり声を失う工藤遥の風貌をどこかでみたことがある、という想いが小骨のように喉元に刺さっていた。あるとき、はたと気がついた。チャップリンのサイレント・コメディ、あの『キッド』の名子役ジャッキー・クーガンが別れのシーンでみせた表情の記憶と通じあっているのだった。
  • やんちゃだけど義に厚い。どこかハンデを背負った孤独な風の子、あるいは迷子の風情があって、疾風を巻き起こしてふっと消えてゆく。そんな役者・工藤遥の持ち味が、コメディエンヌの要素をぐんと増してドリュー役に全面的に生かされている。マシンガントークを繰りだす役だから、滑舌だの間(ま)の取り方だの、相手とのキャッチボールが不充分な芝居の先走りだの弱点もみえちゃうが、ありていな辛口芸談をわたしが語っても仕方がない。にもかかわらず、今しかできないハマリ役の、つむじ風みたいな魅惑が舞台上を吹きつのっていること。それを感受し尽くすほうが、わたしにとって遥かに大切だ。田中れいなの詠子が一度目の死を迎え、その屍(しかばね)を渋さんが抱きかかえる下界の光景を、左右から天使たちが見下ろしているような聖なる受難画の構図に「今日の日はさようなら」の曲終わりが収まり、舞台が一瞬漆黒に包まれてから、ばーか! のだみ声とともにドリューが参上する。ピカレスクなご機嫌ナンバー「違法再殺少女ドリュー」へと続く、静謐さから疾風怒濤への、この心沸き立つ場面転換が大好き! ドリューのハンデは、両親に捨てられたこと、ニアデスハピネスの兆候を隠して違法業務を請け負っていること、意外と口先三寸のへたれ、おっぱいコンプレックス……。本名・公恵、施設での愛称・ハム恵、彼女いわく「セクシー女優」のドリュー・バリモア*1 にあやかった自称ドリューの、ハンデを蹴散らす信条は、どんな不運も嘆いたりせず「仕方ないことは仕方がない」と、あるがままに受け入れることである。
  • ステーシー化した砂也子(石田亜佑美)の肩に、寒がるといけないからって恋人・祐助(白又敦)が上着をかけてあげる行為を、ドリューは一笑に付す。感情のない屍少女にそんな無駄なエネルギーを使うより、165分割にしてあげたほうが彼女のためと。その笑いが死の直前の多幸感「ニアデスハピネス」というドリュー自身の寿命を告げてもいて、ドリューはそのことを隠している。すぐに寿命が来るなら違法再殺の小遣い稼ぎなど無駄なのに。*2ドリューが受けとめる「あるがまま」がすでに運命に見合わない不均衡を抱えていて、だから彼女は祐助を笑いながらどこか自分を笑っているようでもある。駄々をこねるようにくねくねと笑いながら、祐助に助けを求めているのかも。その強がりがいとおしい。「笑うなよ」と祐助。「だって、あんた、死人を大事にしてるんだもん」とドリュー。砂也子はもうあんたが恋した同級生の女の子じゃなく、見境なくひとを食らうステーシーなんだから、ちゃんと再殺してあげるのがスジってもん、あたしに任せなさい、ばーか、とドリューは言いたいのだ。馬鹿なことはわかってる。にもかかわらず、たとえステーシー隠しの重罪に問われても、祐助は砂也子と逃げると引き下がらない。不合理な運命に合理的に対処するドリューのクールな現実主義の「あるがまま」が、どんなに困難でも運命を能動的に切り拓こうとする祐助の「あるがまま」に気圧されてゆく緊迫感は、武闘派少女ドリューが「愛」を直覚してたじたじとなる過程でもある。祐助に片想いしちゃうのね。いたましく、微笑ましく、胸に沁みる。
  • 相手がもうじき死ぬとわかってる。にもかかわらず、ますます好きになることだってある。「仕方ないんだ」。相手がゾンビになって歩き回る。にもかかわらず、嫌いになれない自分がいる。「仕方ない」。相手がどんどん醜くなり、化け物になる。にもかかわらず、一緒に居たい。「これも仕方ない」。その「にもかかわらず」という態度に「愛」は宿り、祐助が繰り返す「仕方ない」は、その愛の試練を「運命」として「あるがまま」に受け入れることだ。大槻ケンヂのステーシー異聞「再殺部隊隊長の回想」に登場する少年・琢馬は、再殺部隊によって引きちぎられ、つぶれた肉片と化した恋人・七緒*3 の頭部に、身も心も原型を失くしても(再殺の)「約束」が残っている限り七緒は七緒と、重罪覚悟の「愛」の一撃を加える。琢磨の「愛」と「約束」のあり方は、舞台ではそれぞれ、祐助と渋川が受け継いでいる。
  • 「ぼくは自分が絶対に砂也子を捨てられないというこの不運を、あるがままに受け入れたいんだ」と祐助は訴える。成り行きからか、惚れちゃったからか、ドリューは「昔の映画みたいな」*4 ふたりの逃亡を手助けすることになる。再殺部隊の銃口に囲まれて言葉のつぶてで応戦する砂也子の前に、おびえ気味だったドリューが敢然と立ちふさがる。「なんだかややこしいことになったわねぇ、でも、私はドリューよ、このトラブルも、そう、受け入れてやるわ!」と。一拍おいて「あるがままに」と啖呵を切るかっこよさ! ドリューも祐助に倣って愛の試練をこそ「あるがままに」受け入れ、自らは危険人物として抹殺される。再び、三たび、漆黒が訪れる。乱射される銃声。『ステーシーズ 少女再殺歌劇』は、インモラルの漆黒から愛のモラルを問う舞台なのだ。

_____

*1:E.T.』の超有名子役という頂点から転げ落ち、苦心して一線級まで自力で這い上がったドリュー・バリモア本人のインディーズ魂にしてみれば、せめて「性格女優」とでも呼んでほしいところだろうが。

*2:USTステージのコメンタリーを観て、こんな私を好きになってくれるひとなどいないだろうから、再殺してくれるひとをお金で買おうと思った、そう幽霊のドリューが打ち明けているのを思い出した。子供の浅知恵みたいで、それもひどく切ない。

*3:舞台では、佐藤優樹が演じるホスピスの少女にその名が受け継がれている。

*4:原作には、ドリューの大好きな昔の映画として『俺たちに明日はない』『テルマ&ルイーズ』『ゲッタウェイ』『卒業』が挙げられている。1960年代末から80年代初めまでの映画。もし原作が90年代ではなくゼロ年代に書かれていたら、筋肉少女帯の楽曲のタイトルにもなった『トゥルー・ロマンス』がきっと加わるだろう。この映画のヒロイン、最高にイカれた可愛さのパトリシア・アークェットの「パトリシア」をドリューは名乗っていたかもしれない。