身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

ステーシーズ 少女再殺歌劇 考察(結)

幽霊と啓示――詠子とモモとドリュー、ステーシーたち

    『クラムボンはわらっていたよ。』
    『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
    『それならなぜクラムボンはわらったの。』
    『知らない。』
    つぶつぶ泡が流れて行きます。
    蟹の子供らもぽつぽつぽつとつづけて
    五六粒泡を吐きました。
    それはゆれながら水銀のように光って
    斜めに上の方へのぼって行きました。
    つうと銀のいろの腹をひるがえして、
    一疋の魚が頭の上を過ぎて行きました。
    『クラムボンは死んだよ。』
    『クラムボンは殺されたよ。』
                              (宮沢賢治「やまなし」より)
  • 先生の一人称で語られる「施設」のあれこれは、原作小説のなかでもっともわたしが好きなエピソードだ。これに対応する舞台版の「ホスピス」のシーンも大好き! やっと、物語のヘソともなる、ここにたどりついた。ホスピスは「身寄りのないニアデスハピネスの少女たちを一時的に保護する施設」(パンフ)で、ただひとりの特殊能力の持ち主ドリューが脱走したこと以外、それ自体は秘密めいた空間ではない。原作の「施設」は読心術とか念動力とか各々に特殊能力をもった少女たちを幽閉する秘密基地みたいなところで、めいめいが聖痕のように「畸形」を呈している。脱走したドリュー=ハム恵と、彼女と大の仲良しの玉代(舞台の役名で対応させれば生田衣梨奈)は三つ目。領子(同・鈴木香音)は双頭。静美(同・譜久村聖)は腕が3本あり、美伊(同・飯窪春菜)はネコより1つ少ない7つの乳首をもつ。ニアデスハピネスを発症しないかぎり、彼女たちにとってそこは隠れ家みたいな楽園だ。玉代はハム恵といっしょに、「二枚の青い幻燈」がつむぐ宮沢賢治絵物語「やまなし」を先生に語り聞かせてもらうのが大好きだった。またハム恵ちゃんと幻燈機で遊びたい。そう願いつつ、玉代は脱走したハム恵の憤死を予感している。そこにハム恵が幽霊になって帰ってくる。
        ハム恵の姿は幻燈の映し出す映像のように、
        きれいな半透明の輝きとして、
        冬枯れの土の上にあった。
        『クラムボンはかぷかぷ笑ったよ』
        はちきれんばかりの喜びの波を、
        幻燈のハム恵に向かって玉代が投げかけた。
        ハム恵は、施設でよく見せたはにかみ笑いを浮かべて、
        『かぷかぷ、ただいま玉代ちゃん』と言った。
        玉代の心の波が急速に上昇し、下降し、
        喜びと驚きの放射線が一つに混じり、
        ポロポロと流れる涙に昇華していく様が、
        手に取るように読めた。
                    (大槻ケンヂ「ステーシー 終章」より)
  • みんなは「おかえり」を言いあい、ひとりひとりの口元から「ほっこりと月灯りに白い蒸気が輝いた」。お祝いのステップを踏みあい、再殺部隊の夜襲が近いことを告げてハム恵が消えるとともに、先生の引率で冬の夜の荒野を逃げてゆく。それにしても、2匹の蟹の子が水底でお話するところから始まる「やまなし」の、かぷかぷ笑って魚に食われるクラムボン玉代とハム恵が合言葉のように使うクラムボンとは、どんな生き物なんだろう。甲殻類の幼生? それとも、アブクのような無生物?
  • 舞台では、彼女たちの超常の力をドリューに特化し、地獄色の世界とは隔絶した隠れ家みたいな楽園の関係性を生かして、ここをまず捨て子たちと先生の慕わしい笑い場にした。舞台にステーシーが映画でいう「グループショット」として徘徊するとき、わたしはしばしば各々の眼を見るようにしたが、眼に殺気や狂気が宿る瞬間を感じたのは決まって生田衣梨奈飯窪春菜だった。生田衣梨奈玉代は、無邪気な遊びがけたたましい笑いの凶暴さと隣り合わせ。先生との掛け合いも嬉々としてまがまがしく、実に楽しい。ドリュー=ハム恵の幽霊はモモ再臨のときと同じ天上的な光に包まれ、人間とステーシーの共生をほのめかす。彼女が「こっち」で知り合ったというモモと詠子を連れて、三者が横並びになるのは舞台オリジナルだ。ああ、ここがラストシーンになるのかも、とわたしは思った。愛にいそしみ、愛に導く少女⇒ステーシー⇒幽霊たち。わたしたちの姿かたちは変幻自在、くっついたり離れたり、生死を反復しながら「主軸」の元につながってる。「だからいつかどこかでみんながまた会えるわ」と、無常無窮のエネルギー保存則のような預言をモモは語る。「だから、消えることを悲しんじゃいけないの。わかってくれる? 玉代」とドリュー。玉代のおさな児みたいな答え方になぜかぐっときた。「うん、わかる。わからないけど、わかるよ」。人間ってわかってるふりをして、大切なことほどわかってない。でも、子供はきっと、わからないけど、わかってる。
  • 「男の子とのファーストキスの練習台になってくれてありがとね」とハム恵時代をドリューが振り返り、「いいの。ごちそうさまでした」と玉代が応じる。なんだだろう、ちっぽけなことをかけがえがないと感じるこの愛しさ、大いなる肯定感は。少女たちも先生も幽霊も「またいつか」を言いあって、たゆたうように歌がはじまる。五色の光に包まれて。
    実存のない幻影のように
     この世はおぼろげだけど
     きっといつかまた会える
     その時は一緒に踊りましょう
                (末満健一「幻燈幻影マタイツカ」より)
  • これもまた、少女たちが発症しつつあるニアデスハピネスまぼろしなのか? いや、違う。モモによれば、人間もステーシーも幽霊もひと連なりだ。「まぼろしなどであってたまるか」と力をこめた先生が、同じ位相で爆発音とともに侵入してきた再殺部隊に一撃される。残るのは、紫の燐光と「先生、死んじゃったぁ」の無邪気な笑い声。そして、紫に赤の照明が加わって、前章で触れたあのナンバー「少女再殺」に突入する。浄福と哀切のバラード「幻燈幻影マタイツカ」へと至る、戦場の小さな解放区に吹きつのるゆるかやな上昇曲線が、乱気流みたいに「少女再殺」へと急下降するこの一連の劇的ムーブメントには心底震えた。終わるどころか、さらなる深みへ墜ちて、この舞台はいったいどこに着地するつもりなんだろう、と余計な心配をしてしまうほど。漆黒の深みに蝉の声が聞こえ、深い愁いをおびたストリングスが帰ってくる。詠子と渋川が初めて出会ったあの公園の景色が、神々の黄昏みたいな夕暮れの光につつまれる。こうして舞台は、渋川が詠子を再殺した記憶の層という原作にはない時空に降り立ち、白いベンチを中心に、今度は竜巻みたいに気流を巻き上げてゆく。
  • オーケンさんは、子供のころのTV体験「香港カンフー映画の長い長いファイナルバトル」の「白昼夢めいて不思議なトランス感」に通じる「奇妙な心地よさ」が、詠子と渋川の長い殺陣のシーンにはあった、と自身のブログに書いておられた。なるほどな、と思った。わたしは亡き相米慎二監督が80年代に撮った青春ローファンタジー*1 『翔んだカップル』(主演/薬師丸ひろ子)や『台風クラブ』(主演/工藤夕貴)などの長廻しシーンを思い出した。そこでは、生の希薄さや愛の不確かさに抗うように、殴りあったり、小突きあったり、蹴りあったりすることが、他者との関係のなかでのギリギリの存在確認であり、もがきに似た愛情表現だった。相米さんが酔い痴れて、オレの映画はぜんぶ「ミュージカル」なんだと語ってくれたことがある。詠子と渋川の長い殺陣は、その後の渋川を強迫する原罪であると同時に、この濃密な時間を詠子と切り結んだからこそ歯噛みするような生の渇きをも乗り越え得る裂帛のラブシーンであり、「少女再殺」を浄化する最後のミュージカル・ナンバーなのだろう。
  • ベンチに横たわった状態から詠子が右手の指先を震わせてステーシーとして蘇り、背中と首を反らすように起き上がる戦慄。銀の鱗粉が舞うなか、互いに首を絞めあう悲痛。胴に切りこむ渋川のチェーンソーと詠子のターンというケモノのエレガンス。這い登り徘徊し這い降り反撃する、壊れた時計の針の追いかけっこ。「詠子(という役)が降りてきた」、ひとつひとつの仕草を「音に合わせてる」。そう田中れいながコメンタリーで言ったように、愛の闘争というエモーションを全身全霊の殺陣に塗りこめ、なおかつそれが音楽的に振付けられている。互いの心に深い痕跡を残すような、演技も演出もエクセレント! 「どれだけ力を抜いて存在感を出すことができるか」(パンフ)を演技テーマにしたという河相我聞が、いったいどっちがゾンビ? と言いたくなる渋川のふらふらした頼りなさから、身を賭して詠子との「約束」にいそしむ覚悟までを十全に伝えてくれた。お見逸れしました。詠子役の田中れいなもそうだが、芝居に余計なケレンや計算高さがないのが、観ていて清々しい。
  • 大槻ケンヂの原作小説では、ステーシーと人間の闘争は終息をみる。振り返ればあの騒動は、決してそこに在ると「定位」できない「主軸」が世界の微かなひずみを整える期間だった、というちょっと量子力学を連想させる知見が示されたりして。モモが世界の道標となるバイブル的な語録を残し、ドリューの流れを汲む特殊能力者が世界を統治する一方、渋川ら旧人類はクローンのように増殖する無力化ステーシー(詠子も綾波レイみたいに何体もいる)を愛玩して凪のような余生を送る。なんともアイロニカルな日常の平穏の再来。舞台では、ハーブティの匂いだろうか、昏さを増すオレンジの夕景に左右から黄緑の光が混ざり(譜久村聖が「聖的お気に入り」とブログで伝えた照明)、一瞬の微笑とともに再殺された詠子は、苦悩してうずくまる渋川の背後で幽霊(霊魂)として語りかける。「ありがとう、ごめんね、大好きだよ」。その万感が劇中発話されてきた「ありがとう」や「ごめん」や「大好き」と響きあう間もなく、深いブルーライトの下、あの弦楽の音とともにステーシーたちが再びコロス(ギリシャ悲劇の合唱隊)のように朗誦する。ファースト・シークェンスの回帰。そして、少女たちのニアデスハピネスの笑い声だけを残してすべてが漆黒の闇に溶け、劇の源流に帰ってゆく。すごいな、「永劫回帰」の時空みたい。初めて観たとき、そう思った。また「REPEAT KILL」の禁止標識がうち捨てられたこの廃墟の空間に帰ってきたよ、という感懐の念を2日後の再見では抱いた。
  • ステーシーと人間の闘争は終息をみない。わたしたちはまだ煉獄のなかにいる。けれど、ここは落ちこむ場ではない。わけてもポスト3.11の現在には、この終わり方がふさわしいような気がした。正面突破しようとして跳ね返されるような、このシンプルな高揚感はなんだろう? なにも変わらないのに、なにかが決定的に変わってる。まず、ステーシーたちの存在の濃さが違う。哀切の弦楽の音が途切れると、照明に赤が加わり、コロスは肉声を伝えるように「そんな私たちを誰ともなく、ステーシーとそう呼ぶようになった」と威厳をこめて朗誦を結ぶ。レゾンデートル(存在理由)。わたしにとっては騎手時代の細江純子を初勝利に導いた競走馬の名としてのほうが馴染みのある、旧い言葉が思わず浮かんできた。ファースト・シークエンスでは遠目だったコロスが、ほら、こんな前景にせり出して来ている。渋川というふらつき気味の主体の意識を生かしながら、この舞台は、ステーシーたちへと主客が移動してゆくヒロイン劇なのだ。
  • アンサンブルのステーシーたちも、無為無能にもてあそばれるのをやめ、いつしかゾンビものから逸脱して、運命に能動的に、というかほとんど意志的に関わりはじめる、かのようにみえてくる。彼女たちのエレガントな闘争の舞いは、その逸脱への遠心力のようだ。砂也子と祐助の逃避行は物語を先導する「道しるべ」としての希望なのであって、わたしたちはそこにもうひとつの希望の地平を受けとめ得るはず。こんな見通しはどうだろうか。舞台『ステーシーズ 少女再殺歌劇』では、ステーシーは不感症のさまよえるゾンビから多様に変異・進化し、絶対的な他者として人間の前に現れる。身を賭することでしかコミュニケートできない未踏の他者といかに出会い、いかに学習を重ね、彼女たちの問いかけを受けとめていかに関係するか。その試練を通して、新生モーニング娘。受肉したステーシーは今、「凶兆」となるか「恩寵」となるか、そのきわきわで可能なる未来のパートナーとしてここに居る。

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*1:末満健一さんが自己完結した「ハイファンタジー」に対して、現実との接触面が多いファンタジーを「ローファンタジー」と呼んでいたので、その言葉を使ってみました。