身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

LILIUM -リリウム 少女純潔歌劇- 6/14夜

  • ペールトーンの森を擁した鉄柵の下手にゴシック風の尖塔がそびえていて、そこには「永遠の繭期」という刑に処せられた、ラプンツェルのようなお姫様が人知れず幽閉されている。止まない雨。凪を知らない風。惨劇が終わっても、お伽噺の始まりみたいなこの生々しい幻像の余韻は、ずっと鼓動を打ったまま。救いはないが、決して手放せない「愉楽なる刻」があった。
  • アイドルとは、永遠の繭期を生きよ、と強いられた存在だろう。いや、アイドル一般のことはほとんど知らない。ファルス役の工藤遥が消えない稽古傷のことをブログで語っていた。それはスティグマ(聖痕)だ。アイドルの臨界点で切磋琢磨するハロプロの彼女たちは、永遠の繭期のいばら道を踏んで舞台にスティグマを刻む。
  • 優しく手を取ってくれたリリーに執心するマリーゴールド狂恋は、ひたすら地上的なものだ。黙して語らない天上に向かって必死で問いかける誰彼に、まるで、はだかの情念であらがうように。レミゼのエポニーヌが一切引かない役ならば、雨のナンバーは決然としてなお、少女の危うさをどろっと沈澱させた、こんな怨嗟の歌になるのでは? 「もう泣かないと決めた」。芸達者・田村芽実の新たな芸境。
  • 不在と実在、幻想とリアルがたやすく反転する繭期の施設クランにあって、狂熱とメランコリーの日常を生きる少女たちも、主要人物ほどどこか謎めいて霧がかかっている。マリーゴールドは、異分子としての存在を真っ先にあらわにする劇中の発火点だ。以後、それぞれの謎と狂気が起爆し、破局へと加速してゆく。
  • 登場人物は超越的なものをなにがしか恐れ、操られる。「そんなの居るわけがない」「ありもしないお伽噺」と、あくまで否認をつらぬくのは、マリーゴールドだけ。だけど、もしかしてそれは、虐げられた異分子の自分が、実は呪われた超越者に近いという不吉な予感からくる、血脈への狂おしい嫌悪感なのかも。ちょっと裏設定がありそうな感じが、一見わかりやすいキャラクターのマリーゴールドにもある。
  • 文字通り業火に焼かれて繭期を終えるマリーゴールドに対し、彼女の天敵スノウは繭期の孤独と憂愁をひんやりと諦め、受け入れている。外交的かつ世話女房的なガラッパチ飛び蹴り娘、石田亜佑美のチェリーが捨て犬みたいなスノウを唄う陽気なナンバー「ひとりぼっちのスノウ」。陰のある存在を陽性でまぶした、ミュージカルならではの妙技が楽しい。
  • スノウは知りすぎた娘だ。そして、破局の予感を胸に封殺し、知らないふりをし続ける。みんなの夢を壊したくない。でも、みんなと同じ夢はもう見られない。ファルスと踊るときめき。踊り続けられないおののき。この無限に内攻するアンビヴァレンツ(二律背反)を演じさせたら、和田=ジジ・彩花は無敵なの。
  • 施設クランの崩壊が招く「死」を、スノウは恐れている。それでいて、死と親和性がある。自らへの刺客として天敵マリーゴールドを生かしておくことの、総毛立つような戦慄感! お腹が波打ってうまく死ねないの、だからお腹を見ないで、と和田彩花ははにかむ。死してなお心臓が拍動するような死に、スノウは赴くのだと思う。
  • 芝居をしたがるタイプの表現者田村芽実に、あえて「発散」ではなく「内包」の演技を求めた、と演出家の末満さんはいう。ここでは、それを「表出」「刻印」と呼び替えたい。一見冷徹なスノウの感情の、生死をまたぐほどの振幅を、魂のかすかな震えを、和田彩花は「表出」ではなく「刻印」するのだ。
  • 印象派絵画を愛してやまない和田彩花は、その真髄を半ば無意識に自身の演技観に導入してるふう。刻々移ろう光や色=役の感情の「彩」を瞬間ごとの流動感に刻印し、観るもの各々の胸に届ける。印象=Impress=刻印だ。スノウにあって「生」は「死」を内包し、「静」のうちに「動」が刻印される。
  • 印象派といっても、一般的に好まれがちなルノワールやモネより、和田彩花にとってマネとの出会いこそ決定的だった。「死せる闘牛士」という黒い絵に吸いこまれそうになった。学校の行き帰り、田んぼのあぜ道で蛙の死体を数えて歩いたという中学時代のエピソードも思い出される。おお、繭期ならではの、死との親和性よ! どこが似てるかよくわからないけど、「まるで自分を出しているかのように、スノウは演じやすいんです」と、和田彩花千穐楽がはねた後に語っている。「無意識」と「感受性」も繭期のキーワード。
  • 舞台があるたび、ただもう逃げ出したかった自分を女優として目覚めさせた、『我らジャンヌ』(演出:末満健一)のジジ/ジャンヌが記憶から消えちゃうんじゃないか、と不安になるほどスノウに入りこみすぎてる。そう和田彩花は打ち明けた。「入りこみすぎてる」のは、舞台傷とあざだらけの工藤遥も同じ。
  • 工藤遥は10歳の頃から舞台に立っている。本人はビクビクものみたいだが、立つと必ず爪痕を残す。『今がいつかになる前に』、『1974(イクナヨ)』、そして、末満さんとの出会いの作『ステーシーズ』がわたしにとっての役者・工藤遥BEST3。仲間とつるまず、疾風(はやて)のように現れて疾風のように去ってゆく「風小僧」みたいな役が多かった。
  • 思春期前のある種の女の子がもってる少年性を、どの演出家も工藤遥に仮託してきたように思う。泣き虫で一本気で照れ屋のくどぅ自身、「永遠の少年」像をいまだ保持してるみたい。ファルスは工藤遥が思春期をストイックに生きる今だからこそ成立する役だ。これまでのBEST3を遥かに超えてしまった。マッドだけど無垢。無垢のむごさ。
  • あまたの名優・怪優が永遠の時を生きるヴァンパイアを演じてきた。が、ベラ・ルゴシクリストファー・リーウド・キアーも山口祐一郎も、ファルスは演じられまい。どんなに高潔に演じても、性的要素が透けてしまう。首筋を噛むことも血を酌み交わすことも、ファルスにとって真の快楽じゃないはず。
  • リリーやスノウら少女たちを「永遠の繭期」に封印し、身近な花園に憩わせておきたい。その夢が、まだ愛し方も知らない淋しき少年ファルスの罪深さなら、少女たちをまばゆくも漆黒の劇空間に封印し、人々の記憶に憩わせておきたいと願う演出家の夢はどうだろう? わたしたちファンの夢は?
  • ファルスはきわめて批評性の高い、最高にピカレスク(悪漢的)でやばい美男子キャラクターだ。すぐれた批評性とは、なべて創り手、受け手双方の「自己批評」をふくみこむもの。演じる工藤遥が、そんなことつゆほども意識していないのがいい。しくじって大破局を招き、青ざめ喚きながら「まぁいいや」で済ます薄情さもひっくるめ、愛しくてたまらない。
  • 生き埋めにされたまま死ねない者の叫び。ファルスやリリーの呪われた叫びは、すんでのところでどこか聖なる鎮魂歌の一節のようにも響いてくる。神隠しのように忽然と姿を消し、かろうじてリリーの記憶に影を落としていたシルベチカのささやきと、時空を超えて叫びは呼応するふうでもある。
  • 歌姫・小田さくらの「私を忘れないで」。ささやくように歌が始まり、少女歌劇が始まる。シルベチカという忘れられかけた死者のささやき。ファルスやリリーの、幾千年の生者の叫び。妄想と狂騒の声が飛び交う少女たちの日常のリフレインに、死者のささやきと生者の叫びが密やかに響きあう。
  • 死と親密なスノウも、ささやくように語り、歌う少女だった。和田俊輔さん作曲・末満健一さん作詞の「幻想幻惑イノセンス」、好きだぁ。スノウ、リリー、マリーの「TRUE OF VAMP」も。歪んだトライアングルラブの淵から、「真なる吸血種」の影がほの浮かぶ三重唱。はたして、そいつは「化け物」なのか、美しき狂王なのか。ミュージカルらしい佳曲だ。オーラス2曲「永遠の繭期の終わり」と「少女純潔」にも震える。解放のエレジー。そして呪縛のレクイエム。
  • 追うものと追われるものの幾筋かが合体し、歌とダンスを交えて奔流となる。わたしは一度しか観ていないので記憶は不確かだが、終局の流れはそんな感じだった。さっと溶暗しては矢継ぎ早にシーンが切り替わる。緊迫感が増幅する、映画でいうクロス・カッティングの手法。壁に揺らめく影の使い方も映画的だった。
  • 隔離施設クランは外界から攻め落とされるのではなく、内側から崩れ落ちる。醒めない夢からの目覚め。さぁ、辛くとも現実の世界へ帰ろ、とリリーは呼びかける。ダーク・ファンタジーは結末を迎える。現実への脱出口を開けて……。しかし、それがものの見事にひっくり返される。この黒い畳みかけが素晴らしい。
  • エリ・エリ・レマ・サバクタニ。主よ、主よ、なんぞ我を見捨て給うや? 永遠の繭期の十字架にかけられたリリー=鞘師里保の叫びは、キャストパレード合唱曲の必死の問いを招き寄せずにはおかない。イエスが「死」に際した最期の言葉。かくて、サクリファイス=供犠は完成する。だが、リリーが臨むのは「死」ではなく「不死」の場所なのだ。
  • 酷薄な不死の淵から、リリーはメシア(救世主)として復活を遂げるのだろうか。ヴァンプと少女と精霊、三位一体の? そんな夢の続きを見てるのかい、ファルス。なーんてつぶやけば、やぁ、つくづく君は甘いね、と貧血気味の華奢な身をよじり、嗄れたまま鼻にかかった甘い少年声を痙攣させて、きっと彼は笑うだろうな。
  • ディズニー映画みたいに自己完結した「ハイファンタジー」に対し、現実と栄養をやりとりする接触面が広いものを「ローファンタジー」と、かつて末満健一氏は呼称した。「永遠の繭期って、もしやハルのことか?」というのは、悩める乙女の工藤遥さん。『リリウム』は、物語が循環的に続く可能性こみで自己完結度が高く、対現実の接点も多様で幅広い。ならば、稀有の「ハイ&ロー・ファンタジー」と言ってもいいですか、と演出家の末満さんに問いかけてみたい。

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