身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

ミュージカル ドラキュラ 9/5 感想

  • 居座り台風が列島に爪痕を残して去った後、今度は一度去った夏が居座り続けている模様。そんななか、不測の事故含みの仕事漬けに、この10日ほども猛スピードで過ぎ去った。先週の月曜にミュージカル『ドラキュラ』〈オーストリアグラーツ版〉を東京国際フォーラムで観て嗚咽した記憶も、はるか川下に流れ去った気がする。安倍なつみ出演の音楽劇を観るのは『三文オペラ』以来。『リトルショップ・オブ・ホラーズ』も『嵐が丘』もタイミングが合わずに観逃した。むかし、NHK教育テレビで観たW・ワイラー監督の『嵐が丘』で、ヒースクリフの名を吹雪の荒野に連呼するキャシーの亡霊の吸引力なんてちょっと忘れられない。あの役を安倍さんが演じ、歌ったと思うと。悔しかった。ブラム・ストーカー原作のドラキュラものは、1921年の原初的傑作『吸血鬼ノスフェラトゥ』から1992年のコッポラ版『ドラキュラ』まで、主要な映画はそれなりにフォローしている。フランク・ワイルドホーン作曲のこのミュージカル・バージョンも作品として興味があった。同時に、安倍なつみがルーシー役と知り、ファンとして不安もあったのだ。なぜって、ルーシー役はミーナの妹だったり友人だったり隣人だったり設定が微妙に変わるのだが、作品によっては怪奇に染まってあっさり退治されるイロモノ扱いになってしまうから。ワイルドホーンが作曲時に参照したというコッポラ版の映画にしても、ミーナ役のウィノナ・ライダーは記憶の隅っこにあっても、ルーシー役などほとんど思い出せない。でも、今回の『ドラキュラ』のルーシーは嬉しいことに、思いがけず大役だった。
  • 先にルーシーが「滅びた」後のことを書いておこう。和央ようかのドラキュラ伯爵は、美男ドラキュラがその反面として受け継いできたぞっとするほど陰鬱なおぞましさとはほとんど無縁で、ひたすらアンドロギュヌス(両性具有)な透明感と妖美をまとっている。花總まりのミーナは友人ルーシーとは対照的な「理性の女」で、いざとなったら、つまり自分がヴァンパイア化したら「殺してほしい」、と新郎のジョナサン(あるいはヘルシング教授にだったか)に訴えさえする。ところで、胸を突かれるほどに切ない最新作『モールス』の原題が「LET ME IN」(わたしを招き入れて)であるように、ヴァンパイアには相手が招き入れてくれないかぎり人間の領分には踏みこめない、という属性があるらしい。今回のドラキュラ伯爵もミーナが招き入れてくれるのを「待つ」存在。*1 問答無用に襲うのではなく、ある種の奥ゆかしさがあるのだ。「理性の女」としての新婦ミーナもまた、禁断の恋路の行く末をくっきりと自覚しながら否応なく伯爵に惹かれている。第二幕では、この伯爵とミーナの相思相愛の苦悶が甘やかな神秘の相を湛えてたっぷりと謳われる。ミーナの秘めやかな内奥吐露のソロ「愛させないで あなたのこと」(花總まりの歌の力!)から、誘惑的なデュエットを経てミーナがすすんで伯爵の胸の血を吸う「契り」の行為へ。そして、ドラキュラ伯爵のマニュフェストといえるソロ・ナンバー「選ぶべきもの」。お前たちの光の世界は醜悪じゃないか、私は愛する者の凍えた心を溶かしてあげたいだけ、命を奪うことで永遠の愛と自由を与えよう――ざっとそんな中身だったか。闇に棲む生き物の威風になぜか泣けた。ワイルドホーンが和央ようかのドラキュラに捧げた新曲だと観劇後に知った。
  • 一方、ミーナとジョナサンの恋愛描写は薄めだし、ヘルシング教授をリーダーとするドラキュラ征伐のエピソードは浮きぎみだ。ドラキュラと毒杯を交わしたミーナが、ジョナサンとの新婚家庭に戻って幸せになれるとは思えない。もはや光の世界にミーナの居場所がないなら、ドラキュラとミーナはどんな最後を迎えるのか? わくわくした。高橋愛ちゃんが言うように、「わたしの大好きな宝塚の世界観」に貫かれた終幕だった。あるいは、コッポラ版『ドラキュラ』の、愛に目覚めた伯爵の「自己犠牲」による純愛路線をベースとして踏んでいる、というほうがより正確か。ミーナの身の処し方自体はコッポラ版と今回の日本版ははっきり違うのだが、生死を超えて永遠の愛を得ることに変わりはない。正直に打ち明けると、愛の目覚めや永遠の愛を謳うあまり、イノセントな「愛」と、業火に灼かれるような「呪い」がスパークする、ドラキュラ神話の血塗られた悲劇性にはついに届きそこねたかな、という失望感はいくらか残ってしまう。そういう意味で、ドラキュラものの悲劇的な核心をもっともオーソドックスに体現していたのは、一幕半ばから二幕アタマにかけてのルーシーだった。ファンの色眼鏡をとっぱらっても、ヴァンパイアをめぐる王道的な系譜をたどればそうだよなぁ……。
  • 弁護士ジョナサンがドラキュラ城におもむき、夜更けて伯爵の執事たちの餌食になりかけるダンス・ナンバーは、ミュージカル『ドラキュラ』のまず最初の見どころだ。回転装置によって石造りの古城の威容は城内の霊廟となる。青白き美男吸血鬼どもがコウモリのように舞い、波を打つ紫のシーツと呼応してジョナサンをからめ獲ろうとする。伯爵はそれを見とがめ、彼らにはトランシルヴァニアの田舎娘をあてがってジョナサンの首を試し吸いする。その少し前、彼の婚約者ミーナの写真を眼に留めて伯爵は電撃的に一目惚れしていた。まずは前菜にカップルの片割れを味見、ってなバイセクシャルならではの贅沢な浮気心か。グルメからゲテモノまであらゆるご馳走を味わい尽くしたこの放埒な美食家が、混じり気のないパン一切れを求めるように彼方のミーナを呼ぶ。ミーナの友人ルーシーには夢遊病の気があり、その呼び声のこだまに吸い寄せられて瞬く間に伯爵の毒牙にかかる。つまみ食いされちゃう。ミーナが理性の女なら、ルーシーは「感性の女」。その直前にわたしたちは、言い寄る3人の男からよりどりみどり、コミカルで楽天的な婿選びのナンバーを通して有頂天になってる、天衣無縫のルーシーを舞台上に見出している。ワイルドホーンの音楽がアメリカン・ミュージカル風味から一転、ひんやりとした夜霧にまぎれて情欲が妖しくむせかえるような変容をとげるとともに、光から闇への、陽極から陰極への落差をルーシー=安倍なつみは劇的に駆けぬけるのだ。
  • 満月の夜、つややかな闇の向こうに底なしの官能が潜んでいることをルーシーがおののき感得するように、しばしば神様のことを語った天使なっちがその魂を魔物に侵蝕されてゆく。積年の安倍なつみファンなら(わたしはうすーく見守ってきただけだが)そういう感懐を抱き、胸をかきむしられずにはいられまい。奇病に弱ったベッド上から新婚の夫アーサーに無邪気っぽく「大好き」と発してその背中に暗い一瞥を投げたルーシーが、窓辺の闇に潜んだ伯爵をベッド脇の十字架だのニンニクだのをかなぐり捨てて部屋に招き入れ、ベッドに押し倒され、眼を見開いてもがいた果てに恍惚として死のような眠りに落ちる。ファンじゃなくとも、恋を知るものなら、「死に至る病」としての恋の妄執や狂熱に、はたまたルーシーのソロ・ナンバーにまでその惑溺と哀切が染み渡っていることに涙せずにはいられまい。
  • ルーシーは翌朝、息絶える。息絶える、というのは実は束の間の現象で、永遠の命を得る。ルーシーの肉体が墓地に浮遊するイメージの夢幻性は、単純だが素晴らしい。*2 ルーシーの血を吸い尽くさなかった伯爵の優しさゆえか。もちろん、それだけじゃない。世間的にはモテまくっていたのに、背徳を生きて身を滅ぼすような片恋を経験するルーシーにとって、永遠の命は永遠の「呪い」にほかならない。一幕ラスト、ドラキュラとルーシーの壮麗なデュエット・ナンバーもなにか不穏な胸騒ぎをはらんで響いてくる。二幕冒頭に、すっかりヴァンパイア化したルーシーの獣めいた所作となってその呪いは発現する。わが子の幻を必死に抱えているごときルーシーの物狂いを、女優・安倍なつみが神経の張りつめたセルフ・コントロールによって演じている。胸に杭を打たれたルーシーが一瞬、我に返って夫アーサーを虚空にかき抱く断末魔の仕草が切なくって、切なくって。夢に遊び、夜の深みに堕ちたルーシー。はかなさとしたたかさ、無垢とよこしまさ、迷いと靱さ――それら一切を安倍なつみのルーシーは魂に宿していた。瞳は黒い滴(しずく)がしたたるように潤んでいた。冴えた月光が似合う娘だった。

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*1:ルーシーにしても、窓を開け放っていたからドラキュラは部屋に入れたのです。映画ではよく風に揺れるカーテンで、「窓」が開放された通り道として表現されます。

*2:主人公の若かりし頃の母親が妊婦となって突然浮き上がるタルコフスキーの『鏡』の夢幻性を、わたしは思い浮かべました。