身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

『三文オペラ』書きあぐねたこと(再考)

  • 三文オペラ』には「海賊ジェニー」というクルト・ヴァイルの名曲がある。宮本亜門版では、盗品で飾りたてた馬小屋での結婚式の場面だったろうか、ちょっと女体風(?)の横長のテーブルにピカソの「ゲルニカ」をあしらったテーブルクロスが掛けられて*1 宴が開かれるんだけれど、その余興に真っ先に安倍なつみのポリーが手を挙げ、マイクを握って簡素なウェディング・ドレス姿で「海賊ジェニー」をうたう。港の安宿のみずぼらしいメイドが実は海賊の娘で、海賊船が港に横づけされるや、自分をいたぶってきた港の男たちに一網打尽の復讐をするって歌。ポリー=安倍なつみの歌いっぷりには、ロンドンの猥雑な下町に生きる、まだ幼げな掃きだめのツルが、盗賊が集う婚礼の興にのって戯れにワルぶってみせる「落差」の面白さがあり、ニヤリと唸らされる。
  • 1931年製作のG・W・パブストの映画版では、これをロッテ・レーニア(クルト・ヴァイル夫人)のジェニーがうたう。岩波文庫版『三文オペラ』の訳者、岩淵達治氏は「(映画では)ジェニーが裏切りの前にこれをうたうが、ジェニーがメックを売る前にうたうと……多少メックに対する復讐という意味がついてしまうので、やはりポリーの持ち歌とすべきだろう」と註解している。役の感情の昂ぶりを歌によって表現し、方向づけるのは、アンチ・ミュージカル派のブレヒトの望むところじゃない、というのなら、そのとおりだろう。ただ、ここでのジェニーは正確にいうと、密告用の金を受け取り、それをストッキングに隠す裏切りのさなかにあって、早くもそれを悔いたり、心変わりしたりしている。歌の後には、警官を逆誘導してメッキを逃がしちゃう。そんなふうに、復讐の歌とは心情も行動もズレたかたちで「海賊ジェニー」をうたうのだ。これを窓にもたれた不動の姿勢で、暗澹と呪いつぶやくようにうたうジェニー=ロッテ・レーニアがこれまた面白く、こっちはこっちで捨てがたい。
  • けれど、こうも言えるだろう。パブスト版のジェニーはメッキを2度も裏切るブレヒトの戯曲とも、それを踏まえた亜門版のジェニー=秋山菜津子とも違って、一度目はメッキを裏切ろうとして逃がし、拘置所での2度目はメッキを裏切るフリをして逃がす。その分、ジェニーの心の揺れに観るものは入ってゆきやすい。舞台初演時のロッテが演じているとはいえ、こういう心理の暗がりや感情の波立ちに分け入る演出を、ブレヒトは根本的に好まなかったのではないか。『三文オペラ』の序幕はこういうト書きになっている。
   ソーホーの歳の市。
   乞食たちは乞食をし、泥棒たちは盗みを働いている。娼婦たちは売春
   をしている。殺人物語大道歌の歌手は殺人物語大道歌を歌っている。
                          (岩淵達治訳)
  • 「殺人物語大道歌」とは具体的に、大道芸人がうたうあの「メッキ・メーサーのモリタート」のことだ。わたしはこのト書きを読んでいまさらながらに気づいた。あっ、そうか、ゴダールの『勝手にしやがれ』で、シーン・セパーグのパトリシアが「密告するって、とても悪いことね」と問いかけたときにJ・P・ベルモンドのミシェルが発する名高い台詞――「いや、あたりまえさ。密告者は密告する。泥棒は泥棒する。殺人者は殺人する。愛する者たちは愛しあう。見ろよ、コンコルド広場はきれいだろ」というのは、ブレヒトに由来していたんだなって。こういう素っ気ない、ひとを食ったような同語反復(トートロジー)のモノのとらえ方に、わたしたちはゴダールをとおして親しみ、かつ、つまずいてもきたが、その源流はブレヒトにあるのだなって。*2 それならば不遜ながら、ブレヒトのト書きを「ゴダール流」にシンプルに訳し直してみたい。
   ソーホーの歳の市。
   物乞いたちは物乞いし、泥棒たちは泥棒し、売春婦たちは売春し、
   殺人物語の歌うたいは歌をうたう。
  • ふつう、たとえば密告者を描くにしろ売春婦を描くにしろ、密告や売春をするにしかるべき原因や理由がまず描かれ、密告や売春がもたらす結果や到着点が最後に描かれる。そういうストーリーラインの因果の「必然性」*3 において、密告者や売春婦の情動の流れなり、心理のあや模様なりが生じる。観るものはそこにシンパシーを感じたり、怒りを感じたりする。つまり、なんらかの感情移入をして物語が行き着く先へと、物語とともに航海するのだ。それに対し、ブレヒトの劇では「かくかくだから、彼女は裏切る」とか「彼女は裏切る。そんなわけでしかじかになる」とか、そういう観客がいっしょに乗っかりやすいストーリーの因果の航路を断ち切ろうとする。航路から逸れてゆく「異物」こそ、わたしは愛するとでもいうように。密告者は密告する。売春婦は売春する。宿命論? そんな重々しいものじゃないだろう。「異物」はもっと軽々として、爽快なまでに過酷だ。そこにブレヒトがいう「叙事的演劇」の本領もあるはず。
  • ブレヒトが提唱する叙事的演劇のなかでは、動機もなく目的もなく、すべてが起こりうる。そこに立ち騒ぐのは、善悪を超えた美か、美醜を超えた真か。いや、もっともっと、即物的なくらいダイレクトな「存在」の靱さかもしれない。亜門版『三文オペラ』のハイライトともいえる第2幕の「第二の三文フィナーレ」*4 ――2幕フィナーレの歌がパブスト版の映画では、大胆にも開巻間もない合唱としていきなり現れ、「清く正しく生きようともがいてみても、道徳の前にまずメシだ。貧乏人にゃ世間の分け前はまわってこねぇ。罪を犯さなきゃ生きられねぇ」と言葉を投げつけるようにうたわれるのだが、一切の同情を断ち切って密告者は密告し、売春婦は売春する秋山菜津子のジェニーが、オマンコ言葉を投げつけながら、そこでいかに靱く、気高く、観客を挑発するように輝いていたことか。穴だらけの考察はここらでやめにして、もう一度、わが身に受けとめることにしたい。ここじゃ歌は、感情の高揚ではなく、横なぐりの突風だ。
    • やがて、7月末には舞台『オペラ・ド・マランドロ』の地平が開けよう。『三文オペラ』をベースにして、舞台をリオデジャネイロの1940年代に移したこの劇で、安倍なつみのポリーの役どころは、おそらく石川梨華のルーに引きつがれるのだろう。ポリーは権力を駆使もできる物乞いの親玉の娘だが、ルーは街の超リッチな権力者のお嬢さまだ。三上博史の盗賊メッキから別所哲也へバトンが渡されるかたちの首領マックスをめぐり、ジェニーを受け継いでいると思われる愛人マルゴとルーは渡りあう。マルゴを演じるのはマルシアマルシアと渡りあう石川梨華の「負けず嫌い」魂に、はてさて、どんな特異な炎が上がるか? 串田和美は今回の『三文ペラ』のプログラムで、1969年に東ベルリンで観たベルリナー・アンサンブルの『三文オペラ』は、「なんとも色っぽく粋で、不良っぽい空気が舞台から劇場中に充満」していたと語っている。色っぽく粋で、不良っぽさにあふれた『オペラ・ド・マランドロ』になってくれないかな。

_____

*1:人体模型の上にゲルニカの絵のレプリカが置かれていたようです。芝居好きの友人から指摘を受けました。それから友人に導かれて某掲示板も見ました。ありがとう。たくさんのひとがこんな辺境ブログに来てくれてびっくりしました。

*2:演劇に「書かれたもの」を持ちこみ、舞台空間にぶつけるブレヒトの「文書化(リテラリジールング)」の概念にしても、他の追随を許さないくらい、それをスクリーン上で大胆・緊密に発展させているのはゴダールです。ブレヒトゴダール・ラインの幹の太さなんて、いまさらですか? わたしには、ようやく今回が実感的な発見になりました。黄金期のハリウッド・ミュージカルを換骨奪胎したようなゴダールの『女は女である』は、ブレヒト的にはミュージカルではなく、音楽劇ということになるのでしょうか。そういえば、ブレヒトには『三文オペラ』以前に、『男は男だ』という戯曲があります。

*3:わたしたちは物語に「必然性」を求め、人生を物語化したくて実人生にまで「必然性」を求めます。でも、実のところ「必然性」ってなんでしょう? 「スピリチュアル・カウンセラー」が語る人生の「必然性」をころりと信じちゃうのなんて、わたしたちがそれだけ「物語」に縛られてるってことですよね。

*4:舞台『三文オペラ』は3幕からなる音楽劇です。