身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

『三文オペラ』の世界観はお好き?(感想)

  • 三文オペラ』はノリのいい大阪で熱烈なカーテンコールのなか、千穐楽を終えたとのこと。コクーンで観たかぎり、コンクリ打ち抜きみたいな空間をよじ登ったり飛び降りたりの激しい劇だったので、みなさん大きな怪我なく済んでなによりだ。ポリーとして「演劇の魔圏」(ブレヒト)を生きたシンガー・アクトレス安倍なつみの、断崖をよじ登るような挑戦も、ひとまず鋭気充填の小休憩かな。そう願ってる。メッキ・メッサー役の三上博史はわたしにとって、泉鏡花原作・寺山修司監督『草迷宮』の旅する美少年や、時代の寵児ともてはやされながら心の荒廃をかかえた『月の砂漠』(監督・青山真治)のベンチャー起業家が忘れがたい俳優で、彼の『草迷宮』に通じる妖しさや『月の砂漠』に通じるモノ狂いに舞台で触れ得たのもよかった。
  • ほとんど死語みたいだけど「ルンペンプロレタリアート」という言葉があるように、1870年代や1930年代の不況期、街にあふれた浮浪者は最底辺の労働者と地続きにあったわけで、いまのホームレスのイメージとはずいぶん違う。いや、若いひとたちがネカフェで寝泊まりしながら明日のない派遣の仕事に通ういまなら、『三文オペラ』の世界も現代日本に蘇るはず。それが演出家・宮本亜門の読みだろうか。『三文オペラ』は19世紀末ロンドン(産業革命の暗がりをわが物顔で切り裂きジャックが出没した時代)に舞台を設定しながら、「黄金の20年代」の華やぎから大不況とナチスの台頭、大戦へと転げ落ちてゆく往時の時代気分を反映して、ベルリンで大受けした音楽劇だ。
  • ポリーの父親の浮浪者ピーチャムは、奥さんのことを「かあちゃん」と呼ぶ貧民窟暮らしの染みついたおっさん。「乞食商会」の経営者で、市民に哀れをもよおさせる悲惨の五形態なんてのを演出し、部下にニセの義足を与えたり、落ちぶれたどら息子のフリをさせたりして、したたかに儲けている。ピーチャムは育ちや見かけはルンペンだけど、振る舞いや金銭感覚はプロレタリアート(無産階級)を通り越してブルジョワ小市民なのだ。この皮肉な二重性が原作の世界観のキモとなる。メッキも同様で、彼は希代の犯罪者だが、盗みにしろ殺しにしろ配下をたくみに操る。だから、奴の「手袋にはシミひとつついてねえ」。いわば「悪党商会」のボスとして、女にモテモテの伊達男よろしく、ブルジョワのニセ紳士風に振る舞っている。悪党だけど気障(キザ)で粋(イキ)。こういうピカレスク(痛快悪漢もの的)な物語を当時、劇場に足を運んだ市民は好んだのだろう。それでいて、そこにはビジネス社会に生きる市民が鏡の中のブキミな自分に触れてしまうような二重性(合わせ鏡)の作劇上の仕掛けが施されていて、観客はそういう自分の陰画を鼻面に突きつけられて意気消沈したり、思わず笑っちゃったりするハメにもなるのだろう。「流血は最小限にとどめ、それを合理化することがビジネスの原則」って、ブレヒトはイヤミな笑みを浮かべる。
  • さて、往時のロンドンやベルリンがもっていたはずの、享楽と退廃の色濃い匂いをすっ飛ばし、いまの渋谷あたりの華やかでもあり空虚でもある雑ぱくさ(ポリーはキティちゃんグッズをいっぱいつけた女子高生風)に接合させる試み自体を悪いとは思わない。ただ、亜門版『三文オペラ』は、ブレヒトがニヤッと意地悪く仕掛けた「ルンペン・ブルジョワジー」の二重性の面白さ、ソフィスティケート(都会的に洗練)されていながらそれがブラックユーモアにもなる超格差社会への醒めた批評眼までをすっ飛ばし、最下層から突き上げてくる混沌のエネルギーに還元してしまったようにわたしは感じた。そういう混沌のエネルギーを求めたいなら、浮浪者や犯罪者までが市民社会の仕組みやモラル(偽善的なものをふくめて)を模倣しちゃう『三文オペラ』のファルス(茶番劇)的な世界像に立ちのぼるものとしてちゃんと描いてほしかった。
  • 三文オペラ』は何度か映画化されているが、その極めつけはいまだに、舞台初演のカローラ・ネーアーがポリー*1 を、同じくロッテ・レーニア(ブレヒト夫人*2)がジェニーを演じた初映画化のパブスト版『三文オペラ』だろう。ポリーとメッキの別れのシーン、亜門版でもきゃぴきゃぴしてたポリーの安倍なつみが手下の前で気丈な女ボス然と豹変する印象的なシーンだが、パブスト版のポリーはメッキの血塗られた蓄財で、犯罪よりこっちのほうがうまみがあるとばかりに銀行を買収しちゃう。一方、ピーチャムはメッキとつるんだ警視総監ブラウンへの面当てに浮浪者のデモ隊を組織する。めいっぱい「貧乏」と「悲惨」の味つけをした乞食隊はビーチャムのコントロールも効かなくなり、戴冠式のパレードで女王と対面してしまう。このグロテスクな混沌のうねりが時代相と重なって映画のみごとなクライマックスをかたちづくる。他方、ムショから逃げおおせたメッキは賢妻ポリーと合流、失職した警視総監ブラウンを頭取に仕立てピーチャムの力と経験をも取りこんで、ロンドンの一等地ピカデリーにまんまと銀行を開店する。戦争待望の「キャノネン・ソング(大砲の歌)」をみんなでハッピーに歌いながらハッピー・エンドになるのだが、なんともブラックな余韻がある。
  • このパブスト版『三文オペラ』はブレヒトが自分の提示した映画用シノプシス*3 とは違うと訴訟騒動にもなったいわくつきのものだが、これを「ひどい代物」とけなしたというのは行きがかり上とはいえ、後発の芸能・芸術である映画への、演劇人ブレヒトの無理解のようにわたしには思える。キティちゃんとダニエルくんのお面(可能ならミッキーやミニーちゃんも登場させたかったのでは?)が舞台狭しと踊りだし、キラキラのカーニバル空間が現出する亜門版ハッピーエンドよりはるかに、「フィナーレは、まったく真剣に、絶対的な威厳をもって」というブレヒト・メモにかなっている。「まったく真剣に、絶対的な威厳をもって」やるからこそ、しれっとしたご都合主義の可笑しみも、それが反転した不気味さも滲むわけだ。感情移入的に物語を追うのとは違う観劇の、冴え冴えとした楽しみであるはずのブレヒトの「異化効果」とはおそらく、しれっとした「はずし」の妙味で、真剣さも威厳も刑場のメッキの独演(受難のなかで仮面が剥げてゆくメッキ=三上博史は見もの)に集約させ、あとはおもちゃ箱をひっくり返したからといって、それのどこが「異化効果」だろうか。あれをつらぬくなら、ペラペラのシンボリズムじゃなくって、渋谷や原宿のストリートの空気が突然メッキーの処刑シーンに白々と流れこんで劇場の内と外がごっちゃになるような醒めた幻惑性がほしい。
  • 亜門版を観ていちばんよかったと思えたのは、クルト・ヴァイル作曲の歌のシーンだ。笑みの貼りついた白い球体(あれは月のオブジェだったか、理想の男のオブジェだったか)をもてあそび、あらゆる打算とは無縁に、あっという間に悪党の情婦になったいけいけティーンエイジャー、安倍なつみのポリーが「純だったむかし」に想いを馳せながら恋の一撃に人知れず身もだえる「バルバラ・ソング」。無名時代のメッキをヒモとして養ってあげていた秋山菜津子の娼婦ジェニー、この愛すべき裏切り者がソロモンの栄華とその末路にメッキへの呪詛とあこがれを託した「ソロモン・ソング」。「感情が高まった結果、もはや言葉ではなくなって歌が現れる、などというのでは決してない」――ブレヒトがアンチ・ミュージカルの姿勢を鮮明に覚書として残しているのも興味津々で、ブレヒトにとって歌のシーンの魅力とは、流行り歌に所在なく自分を仮託するみたいに、半ば放心し半ば覚醒した役の人物が「声」の強さとともにごろんと投げだされて在ることなのだろう。そういう感じは、パブスト版の映画より亜門版の舞台のほうがよく出ていた気がする。小編成の演奏もモダンな軽みがあって、ヴァイルの曲の妖気と翳りを引き立ててくれた。

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*1:正確には、ネーアーの旦那さんの危篤で初日を前にして急遽代役が立ったらしい。

*2:コメント欄でご指摘いただいたとおり、ロッテ・レーニアは「ブレヒト夫人」ではなく「ヴァイル夫人」です。つつしんで訂正します。

*3:ブレヒトは、メッキが犯罪稼業から足を洗って銀行を設立し、みずから頭取におさまるというアイディアをもっていたそうだ。