身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

わが母の記  感想(女優さん中心に)

◇前説

  • 去年のいまごろは、女優になりたい女の子の一世一代の嘘=演技で内田伽羅樹木希林の孫娘)が大人を揺さぶる、といった傍系エピソードまで忘れられない『奇跡』(監督/是枝裕和)、脚本上の設定に収まりきらない榮倉奈々小西真奈美らの女優の幻惑力、ねじくれた関係性が素敵だった『東京公園』(監督/青山真治)、そして吉高由里子主演のスクリューボール・コメディ婚前特急』(監督/前田弘二)、と面白い日本映画を立て続けに観た。今年は外国映画が『戦火の馬』(監督/スティーヴン・スピルバーグ)から『王朝の陰謀』(監督/ツイ・ハーク 5/5公開)まで、春に快作が集中してるのに、日本映画はスルーしたくなるものばかり。『わが母の記』(4/28公開)も観るのを迷った。モントリオール国際映画祭で審査員特別グランプリを受賞しているが、この映画祭は大甘なほど日本びいきで知られるので、家族ものの映画は余計に割り引いて考えてしまう。監督の原田眞人は1997年の『バウンス ko GALS』にかなり惹かれるものがあったけれど、以後ろくなものがなく、近作には足が向かなくなっていた。宮崎あおい真野恵里菜が出演していなかったら、これも観ずに済ませただろう。力作だった。観てよかった。

宮崎あおい

  • 宮崎あおいは国民的女優になってから、どうも映画にはあまり恵まれていない。作品を選べる立場にあるだろうに、なぜなのって思う。本人の意志を反映した選択ミスが多いのか、マネージメントする周りの大人がいけないのか。彼女の女優としての出発点は世界を震撼させた映画なのだから、映画女優ならではの光彩を放つ宮崎あおいを観たい。そんな想いがひさしぶりに満たされた。原作は井上靖の自伝的小説。作家役の役所広司との共演は、鮮烈なデビュー作『EUREKA ユリイカ』以来か。ほとんど主役級の準主役といっていい。作家・伊上洪作の三女、宮崎あおい演じる琴子は、「家族の奉仕」と父が呼ぶベストセラー小説の検印に加わらずに自室で好きなカメラをいじり、家族団らんの食卓にも顔を見せない。娘に厳しく接する父親は溺愛の裏返しにみえるが、そんな父に対する反抗児として琴子はまず登場する。反抗児といっても、家族関係をぶちこわしたいわけじゃない。むしろ、父の剣幕におびえる病弱でいまだ少女のような内向娘・次女の紀子(菊池亜紀子)を支え、少年期に「捨てられた」ことに父がしこりを持ち続ける祖母・八重をかばう。琴子の存在は作家であり一家の大黒柱でもある伊上の視点に距離を置いた、もうひとつのフェミニンなまなざしをドラマに与え、それが伊上家という大家族を立体的に照らし出すのだ。途中から語り部の役目も果たす。
  • 軽井沢の別荘でのこと。洪作のお抱え運転手にして作家志望の秘書でもある瀬川に向かい、私を取ったら父と対立することになるかもよ、文学賞の候補になっても選考委員の父に反対されるかも、さぁ父を取るか私を取るか、と琴子が大小の瓶を両手で差し出して脅迫めいた究極の二択を迫る。教養はあるけど緊張屋さんの若輩を手玉にとるような、たしなめておいて引き入れるような、宮崎あおいの剛毅なりりしさ、小悪魔風の微笑みが素晴らしい。お父さんは一方でお婆ちゃんを憎みながら、もう一方では老いのもうろくを面白がって小説のネタにしてる。そんなふうに父を非難する琴子だが、時間をかけてこの母子をつなぐ触媒となるのもまた琴子。樹木希林役所広司という大物を向こうにまわし、演技の陰影ではかなわなくても、相手とその都度感応する女優・宮崎あおいの感度のよさ、情愛の惜しみない注ぎっぷりが琴子の多方向への心くばりとだぶって、まったくひけをとっていない。レトロなホテルでの祖母・八重の誕生会、長女・郁子(ミムラ)も結婚を控え、みんなにとってもこれが「最後の家族旅行」になる予感がするパーティをいとおしむように、家族関係の大波小波を泳いだりプカプカ浮かんだりして見守る静かな存在感など、さすがだねって思う。

真野恵里菜

  • 外で水仕事かなにかをしていたのを、誰かに呼ばれて勢いよく走り出し、縁側から家に駆け上がるんだったっけ。伊豆の太陽にさらされて育った無一物の自然児、って風情で貞代は登場する。登場シーンは少ないが、演じる真野恵里菜は名バイブレイヤーさながらに瞬発力で目を惹いてみせる。おそらく、土地の娘が伊豆の実家で暮らしていた樹木希林の八重に気に入られて、そのウチのお手伝いさんになったのだろう。語尾に「…だら」がつく伊豆弁を話す。綺麗な富士びたいをさらして後ろに黒髪をひっつめ、割烹着姿や庭の洗濯干しがよく似合う。軽井沢から世田谷へ、八重の流転に伴ってどこへでもついてゆき、田舎娘のくせにその生活空間にあっという間に馴染んでしまう。片手にみかんを、片手にクッキーをもって、食いしん坊よろしく顔が黄色くなるまで琴子たちと女子トークを楽しむ様子など、自然にそこに居るって感じが「映画女優」してる。貧しい家の出で少女期から苦労もあったろうに、そんな屈託を微塵もみせない。底ぬけの人のよさに、気性の強さがときどきのぞいて、太陽と大気と風の少女といったおもむき。太陽光の和らぎや空気の流れを繊細に捉えてみせる芦澤明子のカメラとの相性抜群だな、ってうれしくなった。

樹木希林

  • 伊上洪作の母であり、琴子の祖母である八重は、夫の死とともにボケがはじまり、夫を忘れてゆく。それは物忘れがひどくなる老人病の一貫なのだろう。って決めつけるのは、ずいぶん八重を甘く見ている。むしろ、夫をいち早く忘れたいという積極的な思いが先で、物忘れのひどさを利用しているふしがある。部屋の暗がりで、もう(さんざん尽くした)お爺ちゃんから解放してもらいましょ、と母親がつぶやくのを洪作が耳にするシーンは、樹木希林の抑えた演技の凄みとあいまって背筋がぞくっとくる。八重はどんどん幼児化し、「5歳くらい」になる。でも、どこまでがボケ症状でどこまでが芝居か、あたふたと巻きこまれる子供や孫たちをわざと困らせているふうにもみえる。悲劇的じゃなく、どこか策士っぽくてユーモラスなのだ。このあたりも樹木希林の上手さ。それでも痴呆症は進行する。夜中の徘徊は亡き親を捜しているのか、かつて別れ別れになった子を捜しているのか。息子は3日前に死んだ、と八重が言う。目の前の洪作を息子とはもはや認識できない。その見知らぬ誰かに向かって、八重が小箱から紙切れを取りだしてたどたどしく○○する一場は、母への積年の確執が洪作の胸元から溶け出そうとする本篇屈指のシーンだ。ここはこれ以上書けない。樹木希林役所広司が、見えない剣で斬りあっている。

キムラ緑子

  • 伊上洪作の妹であり、八重の娘(長女)である志賀子を演じる。キムラ緑子の名は『真木栗ノ穴』(監督:深川栄洋)で覚えた。西島秀俊演じる貧乏作家が編集者に官能小説を求められ、悶々とするうちに自分の筆がつむぐ虚構世界に呑みこまれてゆく、というお話。その虚構と現実の通路となる「穴」の番人みたいな、まぼろしめいた女囚の中年女役だった。もともと小劇団の看板女優で輝かしい受賞歴があるのは、不明にも知らなかった。志賀子という役は出番の少ない脇役だが、演劇出身にありがちな押しの強い芝居を消して、役の雰囲気や佇まい自体が鮮やかな印象を残す。新進映画女優として、キムラさんの分岐点になるのではないだろうか。志賀子は、伊豆の実家に夫婦で八重と同居してきた。長年母親の世話を焼きながら、ボケを半ば使い分けて意地悪婆さん化した母の矢面に立たされる。家を乗っ取ろうとする余所者みたいに、母親に追っ払われようとまでされちゃう。それが、根はおしゃべり好きの明るいおばさんの泣き笑いとして、生活の佇まいに現れるのがいい。ほらほら、なんとか物語って映画があったでしょ、と小津安二郎の名作を引き合いに出し、母さんの相手をしてると、あの映画に出てくるいけすかない娘みたいに自分が思えてくる、と世田谷の家族に電話で泣きついたりする。そんな志賀子の逸走がべとっとせず、くすっと笑える感じなど、たしかにちょっと『東京物語』あたりの杉村春子を連想させぬでもない。

◇後説

  • シビアに観れば、ドラマが終わりに向かうに連れて演出にへんな欲が出たのか、ペースを乱している。徘徊ぐせのある樹木希林のお婆ちゃんをダンプの運転手が連携して助けるところなど、映画的にハジけそうなのに、がくっとなるほど。でも、女優さんが脇に至るまでおしなべて輝いている。これは監督と女優の緊密なコラボの成果といっていいだろう。主人公となる作家・伊上洪作を演じる役所広司もいいのだが、たとえば役所さんゆかりのあの監督ならこんな演技、こんなカメラの寄り方は要求しないだろうなぁという、見え透いた泣かせどころがラスト付近にあった。いま世界的にも指折りの名撮影監督といえる芦澤明子の、自然光を生かした撮影のみずみずしさ(井上靖の世田谷区の屋敷が主要ロケに使われた)が、ずいぶん甘いところもあるこの映画を救っていると思った。実は、いくつかのシーンで不覚にも泣かされた。あるいは、それはわたし自身の甘さかも。公開されれば、去年の『八日目の蝉』みたく映画の力以上に絶賛される予感がする。わたしはそれに与しないが、女優さんたちへのオマージュを込めた雑記だけでも残しておきたくて。

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