身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

トランセンデンス  感想

  • AI(人工知能)がもし自我を持ったら? というテーゼは、『2001年宇宙の旅』のHALコンピュータをはじめ、幾つものSF映画が先行してきました。いまや、チェスや将棋で有段者が打ち負かされるのはもとより、ソフトバンク孫社長が、人間の声のトーンや表情の動きまで読んで「感情」を解する人型ロボットの中核となるエンジン開発に乗り出す時代、へたすりゃ、現実のほうが進んでるということになりかねません。そんな21世紀の現代に、どこまでリアルにこの命題にアプローチできるか。そこに果敢に挑んでみせたのがこのSF大作です。
  • 物語の設定はこんなぐあいです。人工知能研究の第一人者ウィル(ジョニー・デップ)が反テクノロジー運動家の凶弾に倒れる。死地をさまようなか、彼は同じ科学者である妻エヴリンや神経生物学者の盟友マックスの助けを借り、自分を実験台にすることを決意します。そして、開発中のスーパーコンピュータPINNと自分の頭脳を電極でつなぎ、人間のブレインマップに対応する知能のトータルを、脳波パターンを解析・統合することによってPINNに構造的に移植(インストール)するのです。肉体は滅びても、「意識」はコンピュータ上で不死を保つ……。
  • 大手検索サイトのリーダーやエンジニアたちが文字情報や音声ソフト・映像ソフトを超えて、人間の脳内記憶を本気でデータベース化しようと考えてもいる世の中、このあたりのリアリティはさすがです。近未来への期待と不安もひっくるめて、どきどきします。
  • さらにリアルなのは、愛する夫を失いたくないというエヴリンの感情を利用して、自己意識を持ったPINNが、オンラインで世界中のビッグデータに侵入し、進化してグローバルな金融市場からナノテクノロジー再生医療までを操りはじめる展開です。そのとき、自立的に暴走するPINNはすでにウィルの知能をはるかに超えている! という恐ろしさ。
  • 人工知能が最先端の神経科学をも取り込んで人間の知性を超えていく臨界点を、識者の間では「シンギュラリティ」と呼ぶことを、この映画を通じてはじめて知りました。もともと、シンギュラリティ=特異性・単独性とは、ほかと取り替えの効かないこの無二の「命」(人である必要はなく「わたしの大事なペットの猫」でも同じ)に対する現代思想の重要な概念です。1980年代ごろに、わたしもこれをいい加減な独学ながら学びました。一般化できないけれど、私性や特殊性に閉じたりもしない回路として提示されたコンセプトでした。
  • ということは、つまり、コンピュータが取り替えのきかない命に比するようなシンギュラリティを獲得したとき、ほとんど同時に、人間の意識を超越(トランセンド)した神のような集合意識を獲得することになる、ということでしょうか。はたして、それは人間にコントロール可能な事態なのか? このエンターテインメントSFは、そういう問いを突きつけてくるところがきわめてスリリングです。知的興奮があります。
  • もっとも、この映画は自ら造物主になろうとするフランケンシュタイン博士みたいな、マッド・サイエンティストの狂気の愛の物語、といったきわめて古風なSFの物語パターンに帰着してしまいます。後段の展開はいかにも腰くだけ。名撮影監督、かならずしも名監督ならず、ってことでしょうか。なにより、広義のアクションを撮れない監督なのが残念でした。視覚的に人を驚かすだけの映画にはしない、という心意気は充分に感じますが……。そんなふうに、欠点は重々承知。でも、すごーく後を引く捨てがたい映画なんです。(6月28日より、丸の内ピカデリーほかにて全国ロードショー)

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