身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

トランセンデンス  感想

  • AI(人工知能)がもし自我を持ったら? というテーゼは、『2001年宇宙の旅』のHALコンピュータをはじめ、幾つものSF映画が先行してきました。いまや、チェスや将棋で有段者が打ち負かされるのはもとより、ソフトバンク孫社長が、人間の声のトーンや表情の動きまで読んで「感情」を解する人型ロボットの中核となるエンジン開発に乗り出す時代、へたすりゃ、現実のほうが進んでるということになりかねません。そんな21世紀の現代に、どこまでリアルにこの命題にアプローチできるか。そこに果敢に挑んでみせたのがこのSF大作です。
  • 物語の設定はこんなぐあいです。人工知能研究の第一人者ウィル(ジョニー・デップ)が反テクノロジー運動家の凶弾に倒れる。死地をさまようなか、彼は同じ科学者である妻エヴリンや神経生物学者の盟友マックスの助けを借り、自分を実験台にすることを決意します。そして、開発中のスーパーコンピュータPINNと自分の頭脳を電極でつなぎ、人間のブレインマップに対応する知能のトータルを、脳波パターンを解析・統合することによってPINNに構造的に移植(インストール)するのです。肉体は滅びても、「意識」はコンピュータ上で不死を保つ……。
  • 大手検索サイトのリーダーやエンジニアたちが文字情報や音声ソフト・映像ソフトを超えて、人間の脳内記憶を本気でデータベース化しようと考えてもいる世の中、このあたりのリアリティはさすがです。近未来への期待と不安もひっくるめて、どきどきします。
  • さらにリアルなのは、愛する夫を失いたくないというエヴリンの感情を利用して、自己意識を持ったPINNが、オンラインで世界中のビッグデータに侵入し、進化してグローバルな金融市場からナノテクノロジー再生医療までを操りはじめる展開です。そのとき、自立的に暴走するPINNはすでにウィルの知能をはるかに超えている! という恐ろしさ。
  • 人工知能が最先端の神経科学をも取り込んで人間の知性を超えていく臨界点を、識者の間では「シンギュラリティ」と呼ぶことを、この映画を通じてはじめて知りました。もともと、シンギュラリティ=特異性・単独性とは、ほかと取り替えの効かないこの無二の「命」(人である必要はなく「わたしの大事なペットの猫」でも同じ)に対する現代思想の重要な概念です。1980年代ごろに、わたしもこれをいい加減な独学ながら学びました。一般化できないけれど、私性や特殊性に閉じたりもしない回路として提示されたコンセプトでした。
  • ということは、つまり、コンピュータが取り替えのきかない命に比するようなシンギュラリティを獲得したとき、ほとんど同時に、人間の意識を超越(トランセンド)した神のような集合意識を獲得することになる、ということでしょうか。はたして、それは人間にコントロール可能な事態なのか? このエンターテインメントSFは、そういう問いを突きつけてくるところがきわめてスリリングです。知的興奮があります。
  • もっとも、この映画は自ら造物主になろうとするフランケンシュタイン博士みたいな、マッド・サイエンティストの狂気の愛の物語、といったきわめて古風なSFの物語パターンに帰着してしまいます。後段の展開はいかにも腰くだけ。名撮影監督、かならずしも名監督ならず、ってことでしょうか。なにより、広義のアクションを撮れない監督なのが残念でした。視覚的に人を驚かすだけの映画にはしない、という心意気は充分に感じますが……。そんなふうに、欠点は重々承知。でも、すごーく後を引く捨てがたい映画なんです。(6月28日より、丸の内ピカデリーほかにて全国ロードショー)

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ゼロ・グラビティ  感想

    • これ、昨年暮れの劇場公開前に書いていながら、ネットに上げるにはいささかネタバレが過ぎるし、時が経って時期が来たら、もうちょっとディテール濃いめにリライトしよう……なんて思いつつ、放り出してしまっていたものです。『リリウム』の演出家・末満健一氏が、東京公演と大阪公演のあいまに『ゼロ・グラビティ』をBlu-ray鑑賞した感想をつぶやいていて、邦題が「馬鹿」に値することにも触れてられました。で、タイミングを逸した今になって、このままUPしちゃおうという気になりました。ただの気まぐれです。ラストに言及しているので、未見の方はご注意を。
  • 宇宙モノの記念碑的な映画として将来的に名を残しそうな予感がします。宇宙モノといっても、いわゆるSFファンタジーじゃありません。上空60万キロ、地球を間近にひかえた大気圏外の無重力空間がメイン舞台の、ハイパーリアルな物語です。
  • 登場人物はほぼふたり。しかも、操縦に通じ、社交性にも長けた宇宙飛行士(ジョージ・クルーニー)は途中で宇宙の藻屑と消えてしまう。早々と、サンドラ・ブロック演じる女性博士ライアン・ストーンが暗黒の宇宙にひとり取り残されてしまう……
  • 宇宙ゴミ」という言葉を最近よく耳にします。寿命を迎えた人工衛星やロケットが年々増えて軌道を回り続け、宇宙環境に支障をきたすほどゆゆしき事態にあること。この映画では、爆発して破片となった宇宙ゴミが雲のように増殖し、スペースシャトルの船外でストーン博士が医療装置の実験をするちょうどその時、猛烈なスピードで通過します。
  • スペースシャトルは大破し、船内にいたクルーは全員死亡しちゃう。カメラが引くと、果てない暗黒宇宙の孤絶感がある。カメラが寄ると、かぎられた酸素が欠乏間近という宇宙服内の恐怖がある。地球はすぐ目前に青く雄大に浮かんでいるのに、彼女には帰る術がないんです。
  • となりの無人衛星までなんとかたどり着く。でも、ストーン博士は科学エンジニア。無重力訓練の経験は積んでいても、宇宙飛行士のプロじゃない。はたしてどうやって地球に帰還するのか? 絶体絶命の危機なのに、あたりは静寂に満たされ、無重力の浮遊感につらぬかれた平安状態にある――このあたりの描写はみごとです。
  • ところで、ストーン博士には幼い娘を事故で亡くした過去があって、以来心を閉ざし、絶対孤独の宇宙に安住の場を求めてきた、というもうひとつのドラマが秘めらています。そんな彼女が宇宙で極限の危機に瀕し、ふたたび地球に引き寄せられてゆく物語ともいえましょう。壮観な宇宙の物語が、とてもパーソナルな「個」の物語を包み込んでいて、それが観客ひとりひとりの個に訴えかけてくる、という仕組みになっています。
  • 日本タイトルは「ゼロ・グラビティ」=無重力と端的にわかりやすい。一方、原題は「Gravity」=重力。はるかに、こっちのほうが示唆に富んでいます。ラスト、ヒロインが自分という存在をふくめてモノの「重さ」の実感を取り戻してゆく、母なる海への帰還、そのアクションの連動にこそ、もっとも胸を打つものがあるのだから。
  • 監督は、メキシコ出身のアルフォンソ・キュアロン。メキシコという国は、なぜか近年、ハリウッドにも適応できるメジャー志向から、ヨーロッパ系の国際映画祭で賞を獲りまくるインディーズ系まで、大物監督を何人も輩出しています。キュアロン監督の名を覚えたのは、10年くらい前の『リトル・プリンセス』。少女セーラが暮らす寄宿舎を、日本では『小公女』の名で知られた原作のロンドンからニューヨークに移した、明媚で色彩感豊かなハリウッド・デビュー作でした。

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LILIUM -リリウム 少女純潔歌劇- 6/14夜

  • ペールトーンの森を擁した鉄柵の下手にゴシック風の尖塔がそびえていて、そこには「永遠の繭期」という刑に処せられた、ラプンツェルのようなお姫様が人知れず幽閉されている。止まない雨。凪を知らない風。惨劇が終わっても、お伽噺の始まりみたいなこの生々しい幻像の余韻は、ずっと鼓動を打ったまま。救いはないが、決して手放せない「愉楽なる刻」があった。
  • アイドルとは、永遠の繭期を生きよ、と強いられた存在だろう。いや、アイドル一般のことはほとんど知らない。ファルス役の工藤遥が消えない稽古傷のことをブログで語っていた。それはスティグマ(聖痕)だ。アイドルの臨界点で切磋琢磨するハロプロの彼女たちは、永遠の繭期のいばら道を踏んで舞台にスティグマを刻む。
  • 優しく手を取ってくれたリリーに執心するマリーゴールド狂恋は、ひたすら地上的なものだ。黙して語らない天上に向かって必死で問いかける誰彼に、まるで、はだかの情念であらがうように。レミゼのエポニーヌが一切引かない役ならば、雨のナンバーは決然としてなお、少女の危うさをどろっと沈澱させた、こんな怨嗟の歌になるのでは? 「もう泣かないと決めた」。芸達者・田村芽実の新たな芸境。
  • 不在と実在、幻想とリアルがたやすく反転する繭期の施設クランにあって、狂熱とメランコリーの日常を生きる少女たちも、主要人物ほどどこか謎めいて霧がかかっている。マリーゴールドは、異分子としての存在を真っ先にあらわにする劇中の発火点だ。以後、それぞれの謎と狂気が起爆し、破局へと加速してゆく。
  • 登場人物は超越的なものをなにがしか恐れ、操られる。「そんなの居るわけがない」「ありもしないお伽噺」と、あくまで否認をつらぬくのは、マリーゴールドだけ。だけど、もしかしてそれは、虐げられた異分子の自分が、実は呪われた超越者に近いという不吉な予感からくる、血脈への狂おしい嫌悪感なのかも。ちょっと裏設定がありそうな感じが、一見わかりやすいキャラクターのマリーゴールドにもある。
  • 文字通り業火に焼かれて繭期を終えるマリーゴールドに対し、彼女の天敵スノウは繭期の孤独と憂愁をひんやりと諦め、受け入れている。外交的かつ世話女房的なガラッパチ飛び蹴り娘、石田亜佑美のチェリーが捨て犬みたいなスノウを唄う陽気なナンバー「ひとりぼっちのスノウ」。陰のある存在を陽性でまぶした、ミュージカルならではの妙技が楽しい。
  • スノウは知りすぎた娘だ。そして、破局の予感を胸に封殺し、知らないふりをし続ける。みんなの夢を壊したくない。でも、みんなと同じ夢はもう見られない。ファルスと踊るときめき。踊り続けられないおののき。この無限に内攻するアンビヴァレンツ(二律背反)を演じさせたら、和田=ジジ・彩花は無敵なの。
  • 施設クランの崩壊が招く「死」を、スノウは恐れている。それでいて、死と親和性がある。自らへの刺客として天敵マリーゴールドを生かしておくことの、総毛立つような戦慄感! お腹が波打ってうまく死ねないの、だからお腹を見ないで、と和田彩花ははにかむ。死してなお心臓が拍動するような死に、スノウは赴くのだと思う。
  • 芝居をしたがるタイプの表現者田村芽実に、あえて「発散」ではなく「内包」の演技を求めた、と演出家の末満さんはいう。ここでは、それを「表出」「刻印」と呼び替えたい。一見冷徹なスノウの感情の、生死をまたぐほどの振幅を、魂のかすかな震えを、和田彩花は「表出」ではなく「刻印」するのだ。
  • 印象派絵画を愛してやまない和田彩花は、その真髄を半ば無意識に自身の演技観に導入してるふう。刻々移ろう光や色=役の感情の「彩」を瞬間ごとの流動感に刻印し、観るもの各々の胸に届ける。印象=Impress=刻印だ。スノウにあって「生」は「死」を内包し、「静」のうちに「動」が刻印される。
  • 印象派といっても、一般的に好まれがちなルノワールやモネより、和田彩花にとってマネとの出会いこそ決定的だった。「死せる闘牛士」という黒い絵に吸いこまれそうになった。学校の行き帰り、田んぼのあぜ道で蛙の死体を数えて歩いたという中学時代のエピソードも思い出される。おお、繭期ならではの、死との親和性よ! どこが似てるかよくわからないけど、「まるで自分を出しているかのように、スノウは演じやすいんです」と、和田彩花千穐楽がはねた後に語っている。「無意識」と「感受性」も繭期のキーワード。
  • 舞台があるたび、ただもう逃げ出したかった自分を女優として目覚めさせた、『我らジャンヌ』(演出:末満健一)のジジ/ジャンヌが記憶から消えちゃうんじゃないか、と不安になるほどスノウに入りこみすぎてる。そう和田彩花は打ち明けた。「入りこみすぎてる」のは、舞台傷とあざだらけの工藤遥も同じ。
  • 工藤遥は10歳の頃から舞台に立っている。本人はビクビクものみたいだが、立つと必ず爪痕を残す。『今がいつかになる前に』、『1974(イクナヨ)』、そして、末満さんとの出会いの作『ステーシーズ』がわたしにとっての役者・工藤遥BEST3。仲間とつるまず、疾風(はやて)のように現れて疾風のように去ってゆく「風小僧」みたいな役が多かった。
  • 思春期前のある種の女の子がもってる少年性を、どの演出家も工藤遥に仮託してきたように思う。泣き虫で一本気で照れ屋のくどぅ自身、「永遠の少年」像をいまだ保持してるみたい。ファルスは工藤遥が思春期をストイックに生きる今だからこそ成立する役だ。これまでのBEST3を遥かに超えてしまった。マッドだけど無垢。無垢のむごさ。
  • あまたの名優・怪優が永遠の時を生きるヴァンパイアを演じてきた。が、ベラ・ルゴシクリストファー・リーウド・キアーも山口祐一郎も、ファルスは演じられまい。どんなに高潔に演じても、性的要素が透けてしまう。首筋を噛むことも血を酌み交わすことも、ファルスにとって真の快楽じゃないはず。
  • リリーやスノウら少女たちを「永遠の繭期」に封印し、身近な花園に憩わせておきたい。その夢が、まだ愛し方も知らない淋しき少年ファルスの罪深さなら、少女たちをまばゆくも漆黒の劇空間に封印し、人々の記憶に憩わせておきたいと願う演出家の夢はどうだろう? わたしたちファンの夢は?
  • ファルスはきわめて批評性の高い、最高にピカレスク(悪漢的)でやばい美男子キャラクターだ。すぐれた批評性とは、なべて創り手、受け手双方の「自己批評」をふくみこむもの。演じる工藤遥が、そんなことつゆほども意識していないのがいい。しくじって大破局を招き、青ざめ喚きながら「まぁいいや」で済ます薄情さもひっくるめ、愛しくてたまらない。
  • 生き埋めにされたまま死ねない者の叫び。ファルスやリリーの呪われた叫びは、すんでのところでどこか聖なる鎮魂歌の一節のようにも響いてくる。神隠しのように忽然と姿を消し、かろうじてリリーの記憶に影を落としていたシルベチカのささやきと、時空を超えて叫びは呼応するふうでもある。
  • 歌姫・小田さくらの「私を忘れないで」。ささやくように歌が始まり、少女歌劇が始まる。シルベチカという忘れられかけた死者のささやき。ファルスやリリーの、幾千年の生者の叫び。妄想と狂騒の声が飛び交う少女たちの日常のリフレインに、死者のささやきと生者の叫びが密やかに響きあう。
  • 死と親密なスノウも、ささやくように語り、歌う少女だった。和田俊輔さん作曲・末満健一さん作詞の「幻想幻惑イノセンス」、好きだぁ。スノウ、リリー、マリーの「TRUE OF VAMP」も。歪んだトライアングルラブの淵から、「真なる吸血種」の影がほの浮かぶ三重唱。はたして、そいつは「化け物」なのか、美しき狂王なのか。ミュージカルらしい佳曲だ。オーラス2曲「永遠の繭期の終わり」と「少女純潔」にも震える。解放のエレジー。そして呪縛のレクイエム。
  • 追うものと追われるものの幾筋かが合体し、歌とダンスを交えて奔流となる。わたしは一度しか観ていないので記憶は不確かだが、終局の流れはそんな感じだった。さっと溶暗しては矢継ぎ早にシーンが切り替わる。緊迫感が増幅する、映画でいうクロス・カッティングの手法。壁に揺らめく影の使い方も映画的だった。
  • 隔離施設クランは外界から攻め落とされるのではなく、内側から崩れ落ちる。醒めない夢からの目覚め。さぁ、辛くとも現実の世界へ帰ろ、とリリーは呼びかける。ダーク・ファンタジーは結末を迎える。現実への脱出口を開けて……。しかし、それがものの見事にひっくり返される。この黒い畳みかけが素晴らしい。
  • エリ・エリ・レマ・サバクタニ。主よ、主よ、なんぞ我を見捨て給うや? 永遠の繭期の十字架にかけられたリリー=鞘師里保の叫びは、キャストパレード合唱曲の必死の問いを招き寄せずにはおかない。イエスが「死」に際した最期の言葉。かくて、サクリファイス=供犠は完成する。だが、リリーが臨むのは「死」ではなく「不死」の場所なのだ。
  • 酷薄な不死の淵から、リリーはメシア(救世主)として復活を遂げるのだろうか。ヴァンプと少女と精霊、三位一体の? そんな夢の続きを見てるのかい、ファルス。なーんてつぶやけば、やぁ、つくづく君は甘いね、と貧血気味の華奢な身をよじり、嗄れたまま鼻にかかった甘い少年声を痙攣させて、きっと彼は笑うだろうな。
  • ディズニー映画みたいに自己完結した「ハイファンタジー」に対し、現実と栄養をやりとりする接触面が広いものを「ローファンタジー」と、かつて末満健一氏は呼称した。「永遠の繭期って、もしやハルのことか?」というのは、悩める乙女の工藤遥さん。『リリウム』は、物語が循環的に続く可能性こみで自己完結度が高く、対現実の接点も多様で幅広い。ならば、稀有の「ハイ&ロー・ファンタジー」と言ってもいいですか、と演出家の末満さんに問いかけてみたい。

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リンカーン 監督/S・スピルバーグ 感想

  • 寝不足の上、『フライト』の旅客機みたく胃がきりもみ状態、いつ墜落するかという最悪の体調だったが、このリンカーンの造形にはやられた。長引く南北戦争は次第に悲惨の色を濃くし、息子のジョセフ・ゴードン=レヴィットは自分も参戦しないと一生後悔すると強弁する。妻のサリー・フィールドは自らの発狂を賭しても息子を戦場には送らないと言う。その家庭内の板挟みに加えて、奴隷解放をめぐる憲法修正案が議会を通過するか否か、ぎりぎりの大詰めを迎える。否決されれば、内戦を終える絶好機まで失ってしまう。「1年で10歳分年をとる」ほどの、胃がきりもみするどころじゃない狭間にあって、ダニエル・デイ=ルイスリンカーンは老いの疲れを湛えつつ、微笑を浮かべた佇まいにどこか亡霊じみた凄みがある。頑迷な反対票をいかに切り崩すか? 身内の急進派=トミー・リー・ジョーンズをいかに懐柔して中間派を取りこむか? その政治的駆け引き、根回しが姑息じゃなく、暴力的な周囲の目を気にして腹の決まらない相手に対し、有無を言わせぬ説得工作なのがいい。
  • 採決のとき。まず「延期」の危機があり、バンジョーが奏でる音楽とともにリンカーン大統領の元へ側近たちが伝令に駆けだす、ややコミカルなサスペンス。読み上げられる賛成票と反対票が拮抗し、傍聴者が必死で数をかぞえるサスペンス。そして、時を刻む時計の音と、時を告げる鐘の音、窓際のレースのカーテンの使い方。このあたり、議会の「採決」という動きの少ない題材を、スピルバーグがみごと映画的な話法に翻訳している。白馬に乗って立ち去る南軍のリー将軍の後ろ姿。すべてを終えてリンカーンが目撃する戦場の死体の山、その横移動。リンカーン本人は見せず、バルコニー席で観劇する下の息子のリアクションで悲痛を物語る有名な暗殺シーン。スピルバーグがつくりだす格調と抑制の時空を、ダニエル・デイ=ルイスリンカーンが占有し、声を響かせる。若い北軍の黒人兵たちが聞き惚れた、あの亡霊めいた甘い声を。

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レ・ミゼラブル (ミュージカル)感想

  • お正月映画の目玉の1本、映画版のミュージカル『レ・ミゼラブル』(12月21日全国公開)は面白かった。満足感があった。舞台は東宝版を一度だけ観ている。その程度のライト・ファンだ。でも、スターシステムに依存していたころの日本のミュージカル・プレイの時代気分を観客としてわたしは幾らか身に受けているから、スターに頼らず緊密なアンサンブルでみせるミュージカルが、ある水準の質を誇りながらロングラン再演を繰り返したことに大きな感懐があった。ミュージカルに対するわたしの基本姿勢は、演劇にしろ映画にしろここはよくてここはダメなんてシャラクサイこと言ってないで、でき得ればミュージカルのふところに飛び込んでその感興を余すところなく吸い尽くしたいというものだ。その全的没入をゆるしてくれるくらい懐の深い映画であったかどうか、となるとやや口ごもってしまう。口が滑ると、ダメなところにも横滑りしそう。だが、演劇がつちかってきた名場面をできるだけ壊さないように気遣い、先行舞台に敬意を払いながら、セット美術を駆使した映画ならではのスペクタクル表現や時代再現性を感じさせた。真っ当な映画だった。キャメロン・マッキントッシュがプロデュースしたミュージカル舞台はどうも映画化に向きそうにないが、これは成功作といえるのではないか。
  • ミュージカルの主流がショーダンスから歌ものになり、コメディから悲劇になって、映画とミュージカルの相性は一般的に折り合いが悪くなった。ミュージカル・アクターが広い客席の隅々にまで響かせる朗々たる歌の力が、舞台では人の心をわしづかみにしても、映画ではその鈍重な不動性が「動く画」(モーションピクチャー)としてモタないこともしばしばだ。役の心理や感情を語らずになにげない視線や仕草や佇まいで心のひだを伝える映画には、声を限りの哀調がうるさく暑苦しくきこえてしまうことも少なくない。映画版『オペラ座の怪人』などは、もろにそうだったと思う。もちろん、映画でも演出と演技の化学反応によって、歌の不動性が息をのむほどエモーショナルな名シーンを生むこともある。最近でパッと思いつくのは、ミュージカルじゃないけれど、成人しても10代のリストカット癖がぬけない『SHAME―シェイム―』のキャリー・マリガンが、高層ビルのバー・ラウンジで訥々と歌うシーンが素晴らしかった。おのが精神不安定の駆け込み寺にしてきた(どこか互いの近親相姦願望を抑圧しているふしもある)兄マイケル・ファスベンダーを前にして、生活やつれの顔に、少女が泣きはらした後のような目元が厚ぼったく浮かぶ。魅せられるようにその面立ちを凝視するカメラ。彼女が歌うジャズバラード調の「ニューヨーク・ニューヨーク」は決して巧くはないが、崩れた色香にNYの夜の孤独感がそくそくと迫ってきた。
  • トム・フーパー監督は、あらかじめ歌をスタジオで先行して録音して、その歌を現場で流しながら歌に合わせて口パクで演技する、ミュージカル映画では常套手段の「プレスコ」方式を、強い希望でやめたのだという。プレスコでもアフレコ(撮了後に歌を録る)でもなく、彼が選んだのは「同録」。芝居の渦中で発せられるナマの歌を現場で同時にライブ収録するというものだ。現場では思わぬノイズが入ったり、歌収録には向かない悪条件がある。大がかりな撮影では、歌、芝居、アンサンブルの動き、カメラワークの連動性が少しでも崩れると何度もNGが出ちゃうから、役者もスタッフも最大限の緊張を強いられる。ミュージカルでは、歌は台詞の一貫だ。歌だけに集中できる好条件での歌の巧みさよりも、役の感情のほとばしりが台詞となり歌となる、ミュージカルならではの歌の生々しさを、リスクを冒してでもトム・フーパーは生け捕りにしようとした。役者たちがその“原点回帰”を受け入れた。ある意味、舞台よりラジカルな一回性に賭けるその方針が、もっとも奏功したのがファンテーヌを演じたアン・ハサウェイだと思う。今年は『ダークナイト ライジング』のキャットウーマンも爽快なほどのハマリ役だったが、このファンテーヌ役のアン・ハサウェイはすごい!
  • とくに、名ナンバー「夢やぶれて」に至るシークェンス。いわれない誹謗によってファンテーヌは工場をクビになる。幼い娘を食わせるため、あっという間に新米の街娼に墜ちて汚れて。路傍で辱めを受け、その屈辱に抵抗して、さらに窮地に追いこまれる。めまいのような転落ぶりだ。髪を短く刈り上げ、尾羽打ち枯らしたファンテーヌの絶唱を、カメラは打ち震えるように中心をわざと外したバストアップの構図で捉え続ける。ノーメイクのまま、傷心と哀願にのた打つ心の丈を、まるで血を吐くように歌に吐きだす女優アン・ハサウェイと、正対するカメラが、魂魄の気合いで斬り合うよう。観ていて嗚咽が止まらなくなり、わたしはここで一気に身体ごとスクリーンに呪縛されてしまった。ファンテーヌ=アン・ハサウェイの汚辱にまみれた捨て身の神々しさは、マグダラのマリアを連想させた。東宝舞台版ではファンテーヌとジャン・バルジャンの間にそこはかとない恋愛感情があるようにほのめかされていたと覚えているが、記憶違いだろうか。映画版はそのあたりの関係性が薄らいで、エピローグでは、老い果てたジャン・バルジャンに母なる祝福を与えるように、霊魂として再登場する。
  • 基本的に、トム・フーパー監督はオペラのアリアみたいな名調子をこれでもかと聴かせるより、役の感情が台詞のように胸の底から滲み出てくる歌い方が好みのようだ。観るひとによってはせっかくの名曲群、もっとたっぷりとプレスコやアフレコの好条件で聴かせてほしいという方もいるかもしれない。でも、この映画版のキャスト、地の底から時代の情動が湧き立つようなヴィルトル・ユゴー発のこの題材なら、困難を承知でトム・フーパーが選択した「同録」方式が、アン・ハサウェイのファンテーヌを筆頭に、総じて正解だったとわたしは思う。【以降は、映画鑑賞後に読まれることをお勧めします】
  • 「同録」方式があまりうまくいっていないなって思った、心理を言葉でトレースしすぎる歌がところどころ、しつこく邪魔っ気に聴こえたのはラッセル・クロウのジャベールだが、みなさんはどうだろうか。トム・フーパー監督にしても、逃走するジャン・バルジャンを警視ジャベールが執拗に追う――演劇では端折れてしまうが、映画では真価を問われもするサスペンス演出はいかにも半端、これならいっそ端折ったほうがいいのでは、と思った。法=正義という道徳観が崩壊する見せ場(ここは東宝版の石川禅の印象が鮮烈)を含め、ジャベールがアンサンブル・プレイのなかで終始、浮き気味と感じた。ついでに言えば、強欲な宿屋の夫婦を演じたコミック・リリーフとしてのヘレナ・ボナム=カーターらも正直、困った。これは「同録」云々じゃなく、滑稽ながめつさをお芝居として完璧に戯画化してつくり上げてしまうことのつまらなさだ。
  • あぁ横滑りしちゃった。演技と歌を分かちがたいものとして、ライブでつかまえるやり方が功を奏したほうに立ち返ろう。コゼット(アマンダ・セイフライド)とマリウス(エディ・レッドメイン)の一目惚れ的な恋のデュエットに、マリウスへの片想いに苦しむエポニーヌが秘めやかに絡んで三重唱となる「心は愛に溢れて」。一目惚れの表現はミュージカルの独壇場だ。しかも、おずおずと互いに名乗り合い、恋がいままさに始動する門越しの相聞歌が、エポニーヌの声が加わることで、失恋を認めたくない切ない待機状態の翳りを帯びる。なんて素敵! ロンドン公演から大抜擢されたというエポニーヌ役のサマンサ・バークスは、映画女優としての華には欠けるが、片恋を狂おしくもプラトニックに昇華させる彼女の歌は迫真のものがあった。パリの石畳と雨が似合う名ナンバー「オン・マイ・オウン」も。ひとりぼっちの哀訴のなかで、ひとりでもふたりだわ♪ と愛に殉ずる覚悟を決めたような、そぼ濡れたエポニーヌを、仰角で捉えたカメラがぐーんとクレーン・アップしてゆく。その引き画にきゅーんときた。泣けた。
  • そして、舞台では第一幕のラストを飾った「ワン・デイ・モア」。バルジャン、コゼット、マリウス、エポニーヌ、さらにはアンジェルラスを筆頭に蜂起する学生たちやジャベールも加わって、ミュージカル的感興にあふれた多重唱だった。それぞれの想いを抱いてクライマックスへと雪崩を打つ映画ならではのモンタージュ手法が効果を上げていた。パリのアパルトメントの住民たちに古い家具を窓から落としてもらい、アンジェルラス率いる学生や民衆が、その家具を使って手際よく革命を期したバリケードを築城するという趣向も、映画ならでは。トム・フーパー監督は子供をナチュラルに生かすのが意外なほど上手い。「幼いコゼット」の登場シーンや森の井戸で水を汲みバルジャンと出会うシーンもよかったが、街をねぐらとする少年ガブローシュのここでの快活な生命感は目を見張るものがある。ガブローシュは、この舞台ミュージカルの生みの親たる作詞・作曲チーム、ブーブリルとシェーンベルクの下で1978年に胚胎した着想の原点ともいえる登場人物だ。誰にも頼らず、吹きっさらしに暮らしてきた生粋の浮浪児ガブローシュがいなければ、革命学生が先導するムーブメントが社会の最下層とつながっていることを、映画のなかで信じ得ることは難しいかも。
  • ガブローシュの最後は、舞台のハイライト「逆さ吊り」に敬意を払ったアンジョルラスの最後とともに悲痛を極める。本篇の白眉の一角といっていい。打ち振られ、打ち捨てられる赤とトリコロールの旗。バリケードの山で合唱されるレジスタンス・ソング「民衆の歌」の、自然発生的な高揚感こそライブ収録ならではのものだろう。ジャン・バルジャンを演じたヒュー・ジャックマンにも好感をもった。「囚人の歌」の地獄(三色旗が泥にまみれていた)から司教との出会いを経て、19世紀の石造りの街を鳥瞰するように、彼の前に世界が一気に開ける「独白」もダイナミックなカメラワーク込みで唸った。けれど、なにより「エピローグ」の、抑制の効いた老けの芝居と歌のよさがヒュー・ジャックマン最大のお手柄ではないか。バルジャンは死期を悟ってマリウスにコゼットを託し、人生の舞台から身を引くように静かな祈りの時を迎えようとする。そこにひととき、アン・ハサウェイのファンテーヌが慈母のように寄り添うのだ。エピローグは舞台版でも名場面だったが、バルジャンの遺した手紙とともに深い余韻を残し、天に召された声たちがコゼットとマリウスの明日を祝福するような映画版もまた格別だった。フルコースの満腹感のある157分。

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マリー・アントワネットに別れをつげて

  • バスチーユ陥落直後、4日間のベルサイユ宮殿の「あたふた」が、マリー・アントワネットに侍女として仕える朗読係の少女シドニーを通して描かれる。ダイアン・クルーガー演じる高慢で誇り高い王妃マリー・アントワネットがいて、王妃が寵愛するヴィルジニー・ルドワイヤンのポリニャック夫人がいて、そして王妃をひたすら慕いそばにいたいと願う侍女シドニーがいる。王妃およびその側近の斬首がうわさされる危機的状況が、このいびつな三角関係と烈しく、かつ優雅に交錯する。動揺と楽観が入り混じったその混乱を、侍従たちや侍女たちが宮殿裏手の食堂の暗がりで粗末な食事をとりながら、ネズミがちょこまか動く勝手口から覗き見するような怪しい(妖しくもある)視点が効いている。ヨーロピアン・ロココアメリカン・ポップが溶け合ったようなソフィア・コッポラ版の『マリー・アントワネット』もわたしは嫌いじゃなかったけれど、本場フレンチ流のブノワ・ジャコ版は少女的なときめきの感覚を湛えつつも、濃厚スープみたいに艶っぽい。エロティックといってもいい。
  • 思えば、朗読係の侍女シドニーはむしろ、パリの民衆の立場に近いのだ。それなのに、ひたすら王妃に片想いし献身したあげく、恋敵ポリニャック夫人の名がリストアップされた断頭台の「身代わり」を、彼女は王妃に求められる。以降の切なくもうるわしい緊迫感は、もう息を詰めてドキドキ見守るほかない。侍女シドニーを演じるのはレア・セドゥ。わたしたちにとっては、まず『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』の美女の殺し屋サビーヌとして、鮮烈にスクリーンに顕現した。ウディ・アレンの『ミッドナイト・イン・パリ』では、ヘミングウェイフィッツジェラルドが夜な夜な徘徊した1920年代のパリに吸い寄せられる主人公を現在につなぎとめるパリっ娘を好演した。『ルルドの泉』や『ミステリーズ 運命のリスボン』のレアも素敵。すっかりお気に入りの若手女優さんになってしまった。
  • マリー・アントワネットに別れをつげて』では、強いられた自分の運命を半ば受け入れ、半ば反抗するように、ポリニャック夫人ゆかりの若草色のドレスを身にまとう、シドニー=レア・セドゥの「着替え」シーンのスリリングなこと! 全身総毛立つくらいゾクッとさせられる。哀切と色気がみなぎっている。おそらくは悲劇へと連なるはずの馬車に乗って、王妃に愛された夫人に扮することを楽しむごとく、窓に身を寄せ、自慢げに手を振る。一世一代の晴れ姿のような倒錯性を湛えた、その佇まいのりりしさも、息をのむほど素晴らしい。

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ハロプロ研修生 12月の生タマゴShow!

  • 9日、日曜日の昼の回。かなり無理をして渋谷まで出かけた。今回もメモ程度に。O-EASTは左右が広いので、後ろからでもステージに近くてかなり見やすかった。でも、個人的にはファミリー席を用意してほしいです。今回も超絶楽しかったけれど。研修生の発表会は、これがグループのベストのかたちってポジションを固定せず、新しい芽吹きの勢いを荒削りのままどんどんセンター付近に登用してゆく。研修生個々の資質や実力を「試す」、ステージ体験の場なのだと思う。あぁ「試されてるな」っていちばん感じるのは、はまちゃんこと浜浦彩乃だ。名曲「行くZYX! FLY HIGH」のフェイクみたいに、へなへなになっちゃうこともままあるんですが。大塚愛菜の歌のパートナーといえば小田さくらという印象が強い。今回は、気づけばそこにはまちゃんが居た。自分を可愛く見せることには達人クラスの道重さゆみから譜久村聖が技をぬすんで食らいつく、という構図のデュエット曲「好きだな君が」が、自分を可愛く見せることが苦手なのにみょーな婀娜っぽさのある大塚愛菜浜浦彩乃の天性に張り合う、という関係性に変換されていて膝を打った。
  • それぞれの苦手な領域を試されている大塚愛菜浜浦彩乃は、それだけ推されているってこと。大塚ちゃんはそのあたりわかっていて、「許してにゃん」の難行も自分からすすんで飛び越えちゃう。こちらがことさら意識しなくとも、声が厚みをもって聞こえてくるのは金子りえ室田瑞希の娘。秋コン帯同コンビで、伸びしろの大きさりという点ではむろたんが今公演随一かも。りっちゃんは地平本願だったか、こぶしの効いた節回しが快感だった。植村あかりは歌より台詞とダンスに進境があった。シャッフル曲「もしも…」。モデル並みにたっぱがあるからビニール素材の赤いミニの衣装が映える、映える。しかも、不慣れを隠すための舞台上の所在なさからくる「クール」の印象が薄れ、ステージを楽しむ余裕が出てきた分、涼しげな笑みに年相応の幼さが貌をのぞかせる。そのあたりのアンバランスがなんとも色っぽい。センターにいなくても自然と目があーりーのほうへいってしまう。
  • 結局、研修生発表会の魅力のカナメは、中心から遠心的に視線が逍遥する「目移り」の楽しさなのだと思う。ベテランの高値安定のなかでパフォーマンスの鮮度が消えない旧エッグ組の高木紗友希田辺奈菜美がいれば、初々しさのなかに深窓の令嬢風の渋みを宿したニューフェイス組の山岸理子もいる。だが、今回もっともわたしの心を騒がせたのは一周めぐって宮本佳林だった。「行くZYX! FLY HIGH」のダイナミックでキレのあるかりんちゃんも素晴らしかったが、今回は誰がなんと言っても「Only You」。最初のフレーズが苦しげだった。高音を出すのが辛そうだった。声を出した後に「私、だめね」って辛さが尾を引く感じだった。喉を傷めていたのか、子供と大人の境目で出せる音域が変わったのか。なんだか「目移り」できなくて凝視してしまった。
  • グッと溜めてサッと放つダンスの緩急が、一途さのなかで振動する歌の感情とリンクしはじめる。苦しげな歌が初恋の苦悶や痛切とつながり、音楽と動きが熱を帯びて無媒介に溶け、新たな愛の地平が眼前にひらけることの悦びへとゆるやかに昇りつめてゆく。歌う=踊る=愛するという3連譜みたいな感情の、ひといきに持ち直し、持ち上がる回復力こそ、この楽曲のキモではないか。おごそかにして軽やかな音楽の精髄が、かりんちゃんの肉体に乗りうつり、巧拙を超えた生動をはじめる。なんでも器用にこなした宮本佳林が、いままさに壁にぶち当たりながら、それを梃にして光明と歓喜を身にまとい、初めてのステージ上の恍惚を受けとめようとしてるみたい。この不定形なスリルは、あっという間に立ち去ってしまう焔の煌めきは、断じて現場じゃないと味わえない。
  • 今回の発表会は、モーニング娘。11期『スッピン歌姫』オーディションのファイナリスト、牧野真莉愛岸本ゆめのら新メンバー6人のお披露目公演としても長く記憶に残るだろう。小田さくらの合格発表の後も、CS番組や雑誌記事で顔隠しなしの露出があったから、きっと何か動きがあると確信していた。研修生加入のお知らせは、待ち焦がれたうれしさだった。公演では異例のダンス披露まであって、ふたりはツートップだった。合宿審査の課題曲「 What's Up? 愛はどうなのよ」でのパフォーマンスという有利さもあるのだが、トークインパクトを含めてこのふたりが頭抜けていた。「なかなかクレバーな感じがして、いまのモーニング娘。に入ったら最初からガンガン前に出てくるやろな」という最終審査時のつんくPの言葉から、勇気をもらったその「気持ちを胸にいまここにいます」、そして「まずは研修生でいちばんの人気者に」と、牧野真莉愛は力強く宣言した。
  • 「決まれば即戦力」と、つんくPはあの時、言葉をつづけたのだった。歌姫オーディションでは、ほしい即戦力の方向性が違っていたのだろう。そのスター性は、札幌ドームでお花を手渡したことが「大切な思い出」と日ハムファンの彼女がいう新庄剛志にも相通じる。岸本ゆめのは、風呂場のドアの噛み合わせが悪く、引っ張ったら「ドアと壁が(いっしょになって)私に襲いかかってきました」と笑わせた。2年前のことで、お風呂に浸かるとドア代わりのカーテンから風が入ってくるのにももう慣れたって。合宿中はみんなとつるまず、協調性はあるものの一匹狼タイプだったという。新垣里沙を、歌を聴いてると泣けてくるほど尊敬しているとも(「TOP YELL11月号)。ぬかるみをこつこつ単独で這い上ってくるタイプの岸本ゆめのと、生来の快活さで周りを照らしスポットライトを約束されたタイプの牧野真莉愛。ふたりの好対照な競い合い・高め合いは、もうひとつの好対照、鞘師里保小田さくらの競い合い・高め合いとともに、いまからわくわく愉しみでならない。

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